the farthest tomorrow4


「スタン、起きてよ」
 俺は目を擦りながら、ソファから起き上がった。俺の肩を揺らしていたのは子供のウェンディだった。
 両手を腰に当てた彼女が、テーブルに広げられたノートを指して言う。
「宿題もうちょっとよ。寝ちゃわないで」
 ここは俺の家のリビングで、窓の外から差し込んでいるのは秋の夕日だった。テレビの横にかけられたカレンダーをぼんやり見遣る。本当なら俺は何歳になるのか、数えたくもない。

 寝ぼけまなこで、共同研究のレポートを進めながら、淡々と受け答えをする。冷めきっているコーヒーを一口すすると、ウェンディがぽつりと言った。
「今日のスタン、なんか違うわ」
「そう?」
 俺は少しぎくりとして尋ねる。
「なんだか大人っぽい」
 頬をピンクに染めてノートに視線を落とすウェンディを見ながら、俺は朧げながらに、今回の身の振り方を考えていた。
 今度こそ。今度こそ俺は、この時間への冒涜に見合うだけの結果を出さなくちゃいけない。


 俺はウェンディと別れず、普通のカップルになることを選んだ。日に五往復のメールをし、おやすみの電話をかけあい、日曜は連れだってデートをする。
 カイルはそのへん潔癖なところがあるから、こうしていればまずは射程範囲には入らないだろうし、万一俺を意識することがあったとして、あいつの性格的に勘違いだと打ち消すだろう。カイルは基本的に負ける可能性のあるゲームをしないやつだ。

 改めて付き合ってみれば、ウェンディは理想的な彼女だった。それまでのように誰かと天秤にかけられたり試されたりすることもなくなった。俺は気をつけて振舞ったつもりだったけれど、俺の『大人びた』態度は強く彼女を惹きつけたようだ。
 俺はウェンディに、愛している、と伝える。それは嘘じゃない。
 彼女の正義感や、怒った時の眉。得意げに持ち上げられる口角。リップクリームを塗った唇。笑った時に時折覗く歯並びなんかを、俺は好ましく思う。
 一緒にいて快適だし、お互いの人格を尊重し合える。容姿だって申し分ない。
 多分世の中の多くの人間は、こういう気持ちを愛と呼び、もしくは錯覚し、それでもって伴侶を選び、一生を添い遂げたりするのだと思う。

 でも俺にはできない。俺はほんとうに人を好きになるということがどういうことか知っているから。
 ウェンディだけじゃない。家族や、友達に対するラヴは、俺がカイルを思うときのような、息苦しいようなそれじゃない。
 暴力的な衝動や、得体のしれない哀しみと、
 それから胸に収まりきらない愛しさで、息苦しさに俺はほとんど呼吸ができなくなる。


 ミドルスクールにあがる頃には、俺とカイルが一緒に過ごす時間は取り立てて他の友人より多いものではなくなっていた。
 それでも俺たちは、一番の親友だと、カイルは言う。時折確かめるように言われるたびに、俺は力強く頷いた。ああ、一番の親友だよ。誰より。そう応えて、俺は体中を駆け抜けていく嵐に耐える。


 アドベントの最初の週、腕を組んで中庭を歩いているとき、ウェンディが小さく言った。
「スタンが好きなの、私じゃないよね」
 声は責めるようでもなかったから、俺は言葉を失った。
 喉を上下させた俺を、彼女はまっすぐに見た。グレイの瞳を長く縁取った、黒い睫毛が瞬く。
 俺はうなだれることもできずに、ゆっくり告げた。
「ごめん」
 彼女はこの年の女の子にしてはとても聡明だった。
 お仕着せのセックスだとか、判で押したような甘い言葉とか、そんなものに騙されるようではなくて、俺は彼女のそんなところを買っていたのに。
「いいの、すっきりしたわ」
 彼女はそう言うと、軽やかな足取りで三歩ばかり前へ進んだ。足元できゅっきゅと昨日降った雪が鳴る。それからくるりと俺を振り向いた。奇麗な黒髪がマフラーの下で揺れる。
「ねえ、それでもスタンは、私と付き合っていたいの?」
 俺は眉を寄せた。詰られるかと思っていたので戸惑いながらも、そんな身勝手なことを言える立場じゃないことだけはわかったので頷きかねた。
「事情があるのね」
 彼女は俺の表情を読んで、眉を下げて微笑んだ。
「それじゃそういうことにしましょ」
 喉が勝手に鳴った。
「……ウェンディ?」
 彼女の意図が読めずに名前を呼べば、彼女は首を振った。
「そんな顔しないで。別に振り向いてくれるまで待つとかそういう健気な話じゃないのよ」
 彼女の目は俺を離れ、ふと遠くを見た。
「私も新しい人を探すわ。でもいい人が見つかるまで、学校ではそういうふうに振舞ってあげる」

 ウェンディは俺の思っていたよりも、俺のことを愛してくれていたのだとわかると、俺は途端に申し訳ない気持ちになった。それでも彼女が強く言い張るものだから、それが彼女に無理を強いないことを祈りながら、俺はその申し出に甘えることにした。
  多分カイルのことにも気づいていただろうけれど、敢えてそこには言及しないでいてくれた。彼女は宣言通り、別の学校に恋人を作ったり別れたりして、そのた び俺に愚痴や相談を持ちかけた。もちろん俺と仮面カップルをしていることで訝しがられたりもめたりすることもあって、そのたび責任を感じたものだけれど、 彼女はちゃんと説明(ゲイのクオーターバックがチーム内でパージされないためのカモフラージュだという。全くもって真実だ)しているのに、そんな理解のな い男なんかお断りよ、と頬を膨らませたものだった。

 皮肉なことに、俺たちはそうして、初めて良き友人になれた。男女の駆け引きやロールプレイを超えたところで、いろんなことを話したし、笑い合った。初めて俺たちは対等になれた気がした。

 表向き、俺とウェンディは落ち着いた、上手くいっているカップルに見えていたと思う。ハイスクールの間じゅう、俺たちは二人組と認識され、お互いのことをダンナだとか奥さんだとかそういう渾名で呼ばれ続けた。
 カイルも、何人かの女の子とデートしているようだった。ただどれも長続きはしないようで、俺はそのたびがっかりしたような、ほっとしたような、複雑な気持ちになった。

 三度目のデートで振られた、という愚痴を、コーヒーショップで聞かされている時、カイルがふと呟いた。
「いいよね、スタンたちはさ」
 俺の顔は強張っていやしないか。俺はつとめて軽く、冗談を言うように聞き返した。
「なにが?」
「いいカップルだなって」
 俺は曖昧に頷いて、マグカップで自分の顔を半分覆った。

 俺たちの間には緊張感が常にあった。二人きりでいるとき、ふとした瞬間に息詰まるような、コップのふちまで水がせり上がっているような、切り立った断崖をふたりで歩いているような錯覚に襲われる。
 そこには絶望的な確信があった。きっとこの世界のカイルも、俺のことを愛している。意識しているかいないかわからないけれど、それでも俺を欲している。
 それでも顕在化しない限り、それはないのと違わないのだ。



 俺はあいつに笑っていてほしいと思う。そう思って、何度もこんな愚かなことを繰り返してきた。どんな謗りを受けてでも、それだけを守ろうと思った。

 俺はカイルを愛している。感情はもう大きくなりすぎて、俺の身体に収まりきらない。
 奇麗事だけじゃない。いつだって俺は、あいつの全てを奪いたい衝動と闘っている。でもエゴと独占欲と情欲と、狂おしいほどの葛藤の果てで、それでも俺はあいつになにより笑っていてほしいんだ。

 このもどかしい距離で、作り笑いをお互いに浮かべながら、友達ごっこを続けることしかできないことに、俺はやりきれない気持ちになる。
 愛し合って、同じだけずたずたに傷つけあうより他に、ほんとうに俺たちはこういうふうにしかなれないんだろうか?
 こいつがこれから見つける新しい、正しい、俺のいない幸せを、祈って背中を向けることしか俺にはできないんだろうか? 

 ほんとうは一から十まで、俺が幸せにしてやりたかった。俺の与えられる限りの感情を、言葉を、熱を、時間をこいつにやって、隙間なんかないほどいっぱいに満たしてやりたかった。
 それが、叶うことならば。



 俺たちはハイスクールを卒業した。
 カイルはバークレーに進学を決めて入学準備に忙しく、俺は車で二時間のデンバーのコミュニティカレッジに通いながら学費を貯めることになっている。映像か音楽関係の大学に行こうと、薄ぼんやりと考えているだけだけれど。
 ウェンディは一番長く続いた彼氏と一緒にイェールに行くことになり一足先にコネチカットへ旅立った。遠距離恋愛になるわ、と周囲に吹聴することも忘れずに。彼女は最後まで契約を果たしてくれた。

 州を三つ跨ぐことになるけれど、長い休みには会おう。スカイプもあるから、毎晩話そうよ。最初のうち僕、絶対ホームシックになるから。カイルはそう言った。ちょっと考えて、スタンシックだ、と言い直して、カイルは笑った。

 あと二か月。二か月を耐えれば、俺たちはもう同じ間違いを繰り返さないで済む。距離と時間が、否応なく俺たちを引き裂いてくれる。新しい生活に慣れるのに精いっぱいになって、やりとりも次第に減って、暖かい思い出の地層に埋もれてくれる。

 これで、やっと、俺たちは純粋な親友になれる。
 距離があっても近しく、お互いを思いやって、
 嬉しい時には微笑み合い、悲しいときには黙って話を聞く、
 何年振りに出会っても同じように接することができるような、
 柔らかくずっと続く、穏やかな関係が、遂に俺たちに訪れるんだ。

 それは十八の身体を持つ俺には実感のわかない未来だったけれど、少なくとも、これで俺は、彼の、彼を傷つけない思い出になれる。
 そしてどうやらこのやり方でしか、俺は彼の、彼を傷つけない思い出にはなれないらしい。

 カイルとの別離が近づくにつれて、俺は安堵と、同時に言いようのない焦燥に駆られていた。




 六月だというのにばかみたいに暑い日だった。
 俺は部屋で寝ころんで、天井を眺めているうちに意識を失った。
 夢の中で俺はやっぱりベッドに寝ていて、けれど身体を覆うふわふわした感触にこれは夢だと悟る。視界は感光した写真のようにところどころが真っ白で、秒針の音がカチコチうるさく、時間は伸びたり縮んだりしている。
 小さなころの俺とカイルが、しゃがみこんだりとび跳ねたり、部屋のあちこちでしているのがちらちらと視界に映りこむ。二人とも屈託なく笑っていて、ああよかった、と俺は思う。
 誰かが俺を覗き込んでいるのに気づいた。この口元を俺が見間違える訳もない。唇の端が持ち上がった。そうか。お前も嬉しいよな。俺は彼を抱き寄せた。だってこれは夢だから。

 唇が触れあった瞬間、俺は覚醒した。
 跳ね起きて後ずされば、背中でがたんとヘッドボードが鳴る。
「ごめん」
 俺は茫然として謝った。ベッドに腰かけたカイルは唇を半開きにしたまま、首を小さく振った。心臓が銅鑼みたいに煩い。煩くて、俺は自分が今しなきゃいけないことを考えられない。理性も思考も、陽炎みたいに揺らめいて届かない。Tシャツが背中に、じとりと貼りつく。
 何らかの磁力が働いているかのように、俺たちは正面から合った目を逸らせなかった。

 手の甲が焼けるかと思った。触れていたのはカイルの指だった。俺は彼の手首をつかんで思いきり引き寄せた。

 二度目のキスはどちらから仕掛けたのか判然としない。
 ベッドに倒れ込んで、もどかしさに呻きながらお互いの服を剥ぎ合った。
 どちらのせいにもできないぐらい、俺たちはお互いに飢えていた。なにもかもが堰を切ったように流れ出した。俺たちは墜落している。恐怖とは遠いところで、目の前の身体をかき抱いた。

 カイルの肌は上気していて、触れたところからどんどん俺の体温になっていく。お互いの身体はひどく汗ばんでいて、一度くっついたら離れられないと思った。吐息は熱く、短く、部屋の空気をあっという間に埋めた。


 俺の喉からは獣みたいな唸り声が押し出される。カイルの身体は俺を迎えて、軋みながらも歓喜の声を上げている。
 俺の乱暴な動きに、ぐずぐずと空気を含んだ結合部がひどい音を立てる。
 もうどれぐらい交わっているかわからない。
「う、」
 カイルの喉からは枯れ切った、いっそ哀れを誘う声が漏れる。弾みで抜けてしまって、俺は汗で滑るカイルの膝を掴みなおした。
 入口はすっかり緩んで、俺の吐きだしたそれを零している。カイルのペニスは度重なる絶頂にすっかり力を失って、それでもだらだらと透明な滴を垂らす。粘膜の色にただでさえ擦りきれている脳を焼かれて、温んだそこに切っ先をあてがい、奥まで貫いた。
「ふ、ーゥ、う」
 鼻にかかった、力のない啜り泣き。
 こんなふうになってもまだ、カイルは俺の動きに応えようと僅かに腰を揺らす。まだだ。まだ足りない。まだ俺たちはこんなにも乾いている。