八八二三(陸)


わざわざ名指しで呼び出されたと思えば公安直々のおしかりとやらで、平謝りだけしてほうほうのていで逃げてきた。現場の人間の苦労も知らないで、鹿爪らしくしてりゃいいんだから、ほんとにあいつらは虫が好かない。

すぐに合流しようと電話をかけたが、トシが携帯に出ない。もしかするとおすずさんに引き止められて茶でも飲んでいるのかもしれない。お得意の女あしらいで上手くやりすごせばいいのに、俺のいいひとだからって遠慮しているのかな。現場を長いことほったらかしにするなんて、仕事熱心なあいつらしくもない。

堤沿いの通りをおすずさんの屋敷へ向かい、東へと車を走らせる。屯所経由で二人の後を追う道を選んだ。もうとっくに屋敷に着いているはずだけれど。
桜が吹雪のようにフロントガラスを叩く。こんなに風が強くちゃすぐに散ってしまうな、と残念に思う。
その吹雪の向こう、遠目にぼうと、黒い服が浮かび上がった。
反射的に思い切り、ブレーキを踏み込む。キイと車輪が悲鳴を上げて、緩やかにカーブを描きながら車体は止まった。


ドアを開け転がるように降りると、呆然とそちらへ足を踏み出した。
一歩、一歩と身体を運び、俄かに信じられずに何度も瞬きをする。瞬きをするけれど夢ではないということがわかるばかりだった。




「・・・トシ」

俺は名前を呼ぶのが精一杯だった。

目の前に広がる光景に現実味はまるでなく、一枚の絵みたいに整ってそこにあった。

トシの手に握られた兼定。それは足元で赤を滴らせ、その先には半分ばかりも黒く染まった淡い藤色の着物が転がり、山吹の帯止めはまだらになっている。
ぴくりともしない身体は疑う余地もなくただの肉塊になっていた。
二体を囲むように広がる腥い水溜りに花が舞って、どこか幻想的で、綺麗だ、と頭のいちばん隅で思った。


喉仏がぎゅ、と上下する。
俺はからからの唇を舐めた。
「……、なんで」

なんでもくそも、と動いた、唇から白いエナメルが覗く。

「あんたを盗ったこの女が、憎くて斬った」

文を読み上げるような表情の無い抑揚。
俺に返す言葉などあるわけが無い。やる方なくて凝視していれば、トシの目がふと眇められた。

「あんたは、おれを、」

憎んでくれるのか。
そう云うトシの表情は返り血を浴びて穏やかで、かつてみたどの彼よりも恍惚としていた。


変わり果てた、
彼女に対しての哀れみ、喪失感は確かに俺の中にぽっかり浮いている、
けれどそれはふわふわとして降りてきてくれない。


代わりに俺を捕らえるのは硬直だった。
恐怖ではない、圧し掛かるのはただ、この撃鉄を起こしたのは俺だという事実。どうしようもなく重い。潰されてしまいそうだ。
火花が出そうなやるせなさは、けれど、こんなことを俺に問いかける。
俺に、トシを責める資格なんかあるだろうか。


俺のために無数の人を斬ってきたトシが、
自分のために一人も斬れない道理はない、

頭の中のもうひとりの俺がそうひとりごちる、
凍ったような思考では、とても反駁できそうに無かった。




090518