ザワールドイズマイン・2


白い、真っ白な世界。
自分の身体と声のほかに、何にも見えない、聞こえない。かろうじて床に立っている、とか、どうやらここから先には進めない、とか、そういうことはおぼろげ ながらに分るけれど、それだけ。
なんにもない殺風景な世界に、トシだけがいる。

かろうじてトシの持っているものは見える。それからトシの輪郭との境目のあたりは伺える。たたみのへりだったり、床板だったり。だからそこがどこで、夜か 昼かくらいは見当が付けられる。
トシの形をしたモニタに、ちらりと映り込む部分だけ見える、というかんじ。実に奇妙な現象だと思う。

トシに手を引いてもらわないとどこにもいけないし、なにしろトシの持つものしか認識できないから、飯も手ずから食わせてもらわないとならない。トイレだっ て一苦労だ。ほんとに笑い事じゃない。


そんな有様なので結局今日はほぼ丸一日、トシは俺につきっきりだった。
トシの感触だけは当たり前だけれど確かで、確かなものがそれしかないので、情けないことに俺は握った手をなかなか離せなかった。

ここぞとばかりにデスクワークを積み上げられ、午後はずっと決裁文書の処理。
他の誰かの通訳や、報告を読み上げるトシの声に耳を傾けるけれど、数時間もすれば集中力も切れてくる。元々頭脳労働は得意じゃないんだ。
「じゃあこれ、判子押しておくな」
押印欄を指さされて頷く。
「ああ、頼む」

書類の角を整えて脇にやる。今ので一区切りついたようで、トシがこほんと咳払いをした。
張りすぎて少し枯れた声が痛々しくて謝った。
「ごめんな、トシにも迷惑かけちまって」
謝れば、トシはくすと頬を歪める。
「あんたが迷惑だなんて今に始まったことじゃねぇし」
「なにそれ!酷ッ」

じゃれあいながらトシの湯飲みを手ごと引き寄せ、茶を一口飲ませてもらった。唇を拭って、背伸びをする。ずっと座りっぱなしじゃ身体がなまっちまう。
「しっかし、なんでトシなんだろうな」
「さあ。ちょうど一番そばにいたとか、そういうのじゃないのか」
まったくふざけた症状だぜ。そう云って胸ポケットから煙草のソフトケースを出す。縦に振って飛び出てきた一本をひゅっとくわえ、ジッポをカチンと鳴らして 火をつける。

一連の仕草をぼうっと観察していたら、トシはあんまこっちみんな、と手で払った。
「男なんかまじまじ見たって面白くもねえだろ」
「んなこといったって」
見るものがトシぐらいしかないんだもの。それにトシは男からしたって見惚れるくらい美形だ。
憎らしいくらいに端整な顔。通った鼻筋。シャープな輪郭。やっぱり睫が長いな。
あ、あんなとこにほくろ。耳たぶの裏に小さなのを見つけて、付き合い長いのに知らないことってまだあるんだなと、変に感心をしてしまう。

目が合えば、トシは小さくふきだした。
「お妙ならよかったのに、な」
くすくすと笑われて、ちくんとした違和感が胸をよぎる。
否定も肯定もできずに、俺は目を伏せた。



トシはおれのことが好きだ。
それももうずいぶん前から。

あいつがそれを白状した、きっかけはよく憶えていない。俺の部屋でいつものように二人で飲んでいて、多分俺がいつもよりしつこく絡んで、いつもよりしつこ くベタベタした、そんな晩。
いつもより乱暴に俺の身体を押しのけたトシは、怒っているような、泣き出しそうな、なんとも云えない顔をした。
それは俺の見たことがない表情だったので、どうした、と覗き込んだら、
あいつは、その気もないのにこういうのはやめてくれ、と唸った。
意味が理解できなくて問いただすと、ずいぶん長くひっぱってくれたあと、やけになったように云った。あんたが好きだ、と。

酔いなんかすっかり醒めた。うろたえた俺と目を合わせようとせず、あんたはどうもしなくていい、と付け加えた。

あいつが辞してひとりきりになった部屋で悶々として、翌日目の下に隈を作ってきた俺に、あいつの態度は拍子抜けするほどあっさりしたもので。
ほんとにそれっきり、あいつは変わったそぶりをみせなかった。
まるで夢だったのかもしれないと思ってしまうほど。

お妙さんとのことも妬くでもない。どうかすると応援するようなことを言ったり、見合いの話が出ても平然としていたり。
するものだから、俺はなんだかわからなくなった。俺のことが好きだったんじゃないのか、と、もやもやした気分になった。だって俺だったらそんなのは厭だ し、立場上騒げないとしたって、二人きりになったら澄ましてなんかいられない。
でも、気持ちに応える気もないのにそんなことを問い詰める権利なんかないと思ったし、下手に藪をつついて気まずくなるのも厭だったから、ずっと宙ぶらりん にしてきた。


トシしか見えなければどうしたって、トシのことを考えてしまう。
今こいつは、何を思ってるんだろう。






090103