アヲハルスタンドバイ・9


壁越しに聞いたミツバの台詞に身が竦んだ。あれから耳の底にこびりついて離れない。


思い返せば身体を結んだ日から、近藤さんは笑顔を俺に向けていない。
屈託無い彼の笑顔を思い出そうとしても、上からあの、辛そうな表情に置き換わってしまう。

ミツバの言うことは正しいと思う。
好きな相手は大事にしたいと、笑っていてほしいと思うのが当たり前のはずなのに。
もう自分が近藤さんのことを好きかなのかどうかも、よくわからなくなってしまった。これはただの気違いじみた執着で、もしかしたら恋心ですらないのかもしれない。


舌を噛んで見せたときの、おれを映す戦いた眼を思い出す。
自分だって無茶苦茶なことをしてる自覚はある。
でも、あのひとにどんなにつらい顔をさせても、傍を離れたくないと思う。

どんなにそれが浅ましい行為なのだとしても。
泣き喚いて縋り付いて、雁字搦めにしてしまいたい。







「ここでよかったかな」

メモで呼びだした空き教室に、伊東はひとりでやってきた。
後ろ手に戸を引いて、こちらへまっすぐに向かってくる。
埃くさい床に座り込んでいた俺は、壁伝いに身を起こした。


伊東はおれの前を横切り、窓枠のところで止まるとガラスを開け放した。
どうと風が吹き込んできて、埃の匂いと伊東の声をかき消す。
空気が悪いな、とかそんなことを言ったんだと思う。

「最初から」
眼鏡の縁を睨むように見遣って、
「てめェのこと、虫が好かなかったんだ」
ぼそりと漏らした呟きに、伊東はしれっとして応える。
「奇遇だな、僕もだよ」

伊東の横顔は落ち着き払っているみたいに見えた。
焼き切れてしまいそうな思考回路に眼を眇め、大股で向き直る。
おれは息を呑み、意を決して膝をついた。
「頼む」


声は掠れてひきつれている。屈辱や羞恥に頭が灼けるようだ。けれどそれを凌ぐどうしようもなさに駆り立てられて、おれは床に頭を付けた。

「近藤さんから、手を引いてくれ」







080301