稽古の声を遠くで聞いて、ブランクなんてたった一週間くらいなのに懐かしさを感じる。 部室裏手に差し掛かったところで人影に気づいて、ぎくりと足を止めた。そのまま早足で行きすぎようとすれば、むきになったように荒い歩みで俺の行く手に割り込んでくる。 「逃げんなよ」 「逃げてねぇ」 顔を伏せ、クラスの他の連中と連み、今日一日はやりすごせたと思った。 総悟の顔だけ見に、道場に行こうだなんて思わなければ良かった、と俺は後悔した。 「嘘だ」 噛みつくような声が俺を責める。 「なんで、おれの顔を見ない」 胸倉を掴まれて初めて、眇めて撫でるようにトシを見た。 観念して肩を落とし、努めて平静を装って低く言った。 「……俺たち、距離を置こう」 シャツ越しの手の温もりだけで、つい一昨日合わせた肌の感触が蘇る。袖の端からぴりぴりと痺れが昇ってくる。鳥肌が立ちそうだ。 「なんで」 物怖じもせず聞き分けのない、トシの言葉に眉間を寄せた。 なんでもくそもない。 お前の傍にいたら、またお前の掠れた声を聞いたら、俺は拒みきる自信がない。 ひりつく喉から吐き出す。俺は、 「嘘を、吐きたくないんだ」 俺は、俺を信じてくれるひとを裏切りたくない。傷つけたりしたくない。 口から吐いた言葉が嘘になっていくのを見たくない。 伊東のひそめられた眉が頭を過ぎって、胸がむかつく。 俺のしたことは許されることではないけれど、もうこれ以上、彼にあんな顔をさせないことが、俺にできる唯一の償いだと思った。 トシはこちらをきっと睨んだ。瞳がみるみる潤んでゆく。 ふ、と息を吸い込み口を大きく開けた。 浴びせられるであろう言葉に身構えたけれど声は聞こえず、代わりにごり、とかすかに鈍い音がして、 遅れて唇から伝う赤に、瞬間頭が真っ白になった。 「ばかやろう!」 肩をひっつかみ、乱暴に口蓋を割って拳を噛ませる。 後から零れてくる血液の、どろりとした色に喉がひゅうと鳴った。 トシは俺の拳に歯を立て、まだこちらを睨め付けてくる。 俺はトシの鼻先で怒鳴った。 「なんで、そんなことをする」 なんでそんな、自分を人質に取るような事をする。 もう俺の声も涙声になってしまいそうだった。 こんなに酷い脅しなんてない。 お前を人質に取られたら、お前自身を盾にされたら、俺は降伏するしかないじゃないか。 だってお前は、誰より俺の傍にいた、誰より大事な、 「あ、んたが、おれの、ものになるなら、」 なんだってする。呂律の回らない舌がそう吐き出した。 真っ赤な口腔がちらりと覗く。こんなに簡単に投げ出されたトシのいのちを想って、かつてないような恐怖と、わけのわからない衝動が、出し抜けに俺の全てを塞いだ。 気づけば俺はトシの口を吸っていた。 鉄の味が口蓋いっぱいに広がる。 血の匂いに噎せ、眩暈さえ憶えたけれど構わずに傷を舐めた。 凍えた子供みたいにトシの腕が、俺のシャツの背中を探って握る。 密着した体温に、けれど俺の身体は、ため息が出るほど充たされている。 最低だ。そう思ったら額に熱が集まって、瞼が火を噴きそうだった。 080226 |