アヲハルスタンドバイ・8


稽古の声を遠くで聞いて、ブランクなんてたった一週間くらいなのに懐かしさを感じる。
部室裏手に差し掛かったところで人影に気づいて、ぎくりと足を止めた。そのまま早足で行きすぎようとすれば、むきになったように荒い歩みで俺の行く手に割り込んでくる。

「逃げんなよ」
「逃げてねぇ」

顔を伏せ、クラスの他の連中と連み、今日一日はやりすごせたと思った。
総悟の顔だけ見に、道場に行こうだなんて思わなければ良かった、と俺は後悔した。

「嘘だ」

噛みつくような声が俺を責める。
「なんで、おれの顔を見ない」
胸倉を掴まれて初めて、眇めて撫でるようにトシを見た。
観念して肩を落とし、努めて平静を装って低く言った。

「……俺たち、距離を置こう」

シャツ越しの手の温もりだけで、つい一昨日合わせた肌の感触が蘇る。袖の端からぴりぴりと痺れが昇ってくる。鳥肌が立ちそうだ。

「なんで」

物怖じもせず聞き分けのない、トシの言葉に眉間を寄せた。
なんでもくそもない。
お前の傍にいたら、またお前の掠れた声を聞いたら、俺は拒みきる自信がない。

ひりつく喉から吐き出す。俺は、
「嘘を、吐きたくないんだ」
俺は、俺を信じてくれるひとを裏切りたくない。傷つけたりしたくない。
口から吐いた言葉が嘘になっていくのを見たくない。
伊東のひそめられた眉が頭を過ぎって、胸がむかつく。
俺のしたことは許されることではないけれど、もうこれ以上、彼にあんな顔をさせないことが、俺にできる唯一の償いだと思った。




トシはこちらをきっと睨んだ。瞳がみるみる潤んでゆく。
ふ、と息を吸い込み口を大きく開けた。

浴びせられるであろう言葉に身構えたけれど声は聞こえず、代わりにごり、とかすかに鈍い音がして、
遅れて唇から伝う赤に、瞬間頭が真っ白になった。


「ばかやろう!」
肩をひっつかみ、乱暴に口蓋を割って拳を噛ませる。
後から零れてくる血液の、どろりとした色に喉がひゅうと鳴った。
トシは俺の拳に歯を立て、まだこちらを睨め付けてくる。
俺はトシの鼻先で怒鳴った。

「なんで、そんなことをする」
なんでそんな、自分を人質に取るような事をする。

もう俺の声も涙声になってしまいそうだった。
こんなに酷い脅しなんてない。
お前を人質に取られたら、お前自身を盾にされたら、俺は降伏するしかないじゃないか。
だってお前は、誰より俺の傍にいた、誰より大事な、


「あ、んたが、おれの、ものになるなら、」
なんだってする。呂律の回らない舌がそう吐き出した。
真っ赤な口腔がちらりと覗く。こんなに簡単に投げ出されたトシのいのちを想って、かつてないような恐怖と、わけのわからない衝動が、出し抜けに俺の全てを塞いだ。



気づけば俺はトシの口を吸っていた。
鉄の味が口蓋いっぱいに広がる。
血の匂いに噎せ、眩暈さえ憶えたけれど構わずに傷を舐めた。
凍えた子供みたいにトシの腕が、俺のシャツの背中を探って握る。

密着した体温に、けれど俺の身体は、ため息が出るほど充たされている。
最低だ。そう思ったら額に熱が集まって、瞼が火を噴きそうだった。





080226