アヲハルスタンドバイ・6


携帯電話のディスプレイに表示される名前にびっくりして飛びつく。
早鐘みたいな鼓動を押さえながら通話ボタンを押した。
「もしもし」
『あ、伊東?』
電話越しの声が少し強張っているのにどこか違和感を感じたけれど、彼からの初めての電話に、否応なく頬が紅潮してしまう。
『ちょっと外出られる?』
「ああ、大丈夫だけれど」
財布をポケットにつめこみながら、どこに、と早口で聞くと、意外な返事が返ってきた。
『今、あんたのマンションの下』



エレベーターを待つのももどかしく、五階ぶんを階段で駆け下りた。
エレベーターホールを抜けエントランスのところで、携帯の画面を睨む、ペールピンクのTシャツを見つける。
足音に気づいてこちらを見た彼はくしゃりと破顔したけれど、それは今まで見たことのない表情だった。



「ごめんな、急に」
「いや、そんなことないよ」
エントランスを出ると、湿気を含んだ六月の夜風が頬を撫でる。
「ちょっと、歩こう」
彼はそれだけ云うと僕に背中を見せた。

歩みがいつもより心なしか忙しない。
「顔見て話さないとと、思って」
こちらを向かない彼に、さきほどからの違和感がだんだん増長していく。
不意に思考に去来する厭な予感を振り払って、僕は彼の後を早足で追った。


マンションの駐車場を抜け、裏手の小さな児童公園に向かう。
昼間とはうってかわって寂しく、蛍光灯がぽつりとベンチだけを照らしていた。


座るように促されベンチに腰を掛けると、向き直った彼は急に頭を下げた。


「すまん」

大きく、腹に響くような声に姿勢が正される。
続いて痛々しいくらいの呻きが耳に届いた。

「俺、トシとセックスしちまった」

ゆっくり瞬きを返す。
遅れて、どくりどくりと立ち上ってくるいやな動悸。

「ほんとにすまない。俺が悪かった」
何も説明のない成り行きだとか、気にならない訳じゃなかったけれど、二人の性格を考えれば何があったか大体は予想が付く。そんなことより、
「俺、もうあんたと付き合ってられる資格がないと思う、だから」
今にも彼の出してしまいそうな結論をせき止めなければ。僕は割れた声で遮った。
「待ってくれ」

彼はびっくりしたみたいに面を上げた。僕は中腰で、彼の服の袖の辺りを思い切り握る。

「構わない」
「だって俺、」
握られた半袖に視線を落とし、また上げて、苦しそうに言い募る。
「あんたと付き合ってるのに、あんたのこと裏切って」
「そんなこと構わない!」
せりふは裏返ってしまいそうだ。
僕は締め付けるような心臓を諫め、騙しだまし抑えた声を漏らした。
「僕は、君の身体が欲しい訳じゃない、」
欲しくないといえば嘘になる。およそあの男がしたように、肉にまみれてしまうような愛し方を、意気地がなくて、そして莫迦みたいなプライドが邪魔してこのひとにぶつけられないだけ。
でも、それなら僕は違うやり方で懇願するまでだ。
「ただこうしていられるだけでいい、だから、」

遠慮がちに肩口に額を押しつける。左手で彼のシャツの脇をそろそろと掴む。
彼の左手は僕の視界の端で戸惑ったように揺れ、結び、開き、それからそっと僕の背中に添えられた。
温かい。シャツ越しに触れたところから流れ込んでくるような錯覚に包まれる。
とくとくと、彼の鼓動が力強く僕のそれを包んでいく。

ほのかに香る汗の匂いに、気が遠くなりそうになりながら呟いた。

「もう少し、このまま」





080225