ドッグンドール・2


 自分の身体から漂う、煙草と酒がこれでもかと入り交じった不快な匂い。
 込み上げてくるものを喉で押し戻す。気持ちが悪い。
 これ以上歩けそうにない。俺の部屋はもうそこに見えているというのに。
 足が崩れる。膝頭が板の感触にぶつかる。俺はそのまま倒れ込んだ。
 力の抜けた身体が堅い床に受け止められて、脇のあたりからドシリとした衝撃が全身を伝う。板張りの廊下はほてった身体に冷たかった。アルコールで朦朧とした意識で気持ちいい、と感じて、背をべたりと床につけて仰向いた。

 半分潰れたような瞼で瞬くと、軒越しに曇った空があった。星は見えない。
 遠くに隊舎のざわめきが聞こえる。酔いつぶれてしまわないうちに、と馬鹿騒ぎから抜けてきた。年々酒の量が増えているような気がする。飲まないとやっていられないことが多すぎる。

 低い耳の位置に虫の音が這い寄ってくる。俺はそちらに感覚を逃した。夏の風の匂い。鼻を衝く草いきれと土の匂い。懐かしい。遠い昔かくれんぼをして遊んだ森、あぜ道、次々まぶたの裏に浮かんでくる。泥まみれの裸足、笑い声、裾のほつれた着物、そこまで思い出して俺は苦い気持ちになった。
 あのひとを抜きにはなにひとつ思い出せない。あのひとのいない思い出なんてない。やりきれないと思った。


 「トシ」
 幻聴まで聞こえ始めた。厭な幻聴だ。振り払おうとかぶりを振ると、もう一度低く名前が呼ばれた。
 背中を貼り付けた床がぎしり、と鳴った。廊下と闇が混じるあたりから、寝巻き姿の近藤さんが姿を見せる。俺に続いて宴会から抜け出してきたのだろうか。そういえば今日はあんまり飲んでいないようだったけれど。
 「こんなとこで寝てると風邪引くぞ」
 「引かね、ぇよ。も、夏だ」
 呂律が上手く回らない舌で噛みつくようにいった。近藤さんは低く笑った。そちらを見なくてもどんな顔をしているか判る。眉を少し寄せた、あの顔だ。
 痛い。胸がずくずくと痛む。動悸が頭まで上がってきて眩暈がする。
 「まあそう云うなよ。布団まで運んでやる」
 すぐそばに膝をついて肩を抱き起こそうとするのを、顔の前で手を払って拒んだ。
 「ちょっと、涼み、たいんだ」
 「わかった。じゃあ起こしてやるから、せめて座って涼め」
 小さい子供に言い聞かせるような声音に、俺はしぶしぶ頷いた。何よりこれ以上拒む理由が見つからなかった。
 冷えた外気に晒された肩を、背中を、温かく大きな手が掴む。アルコールのせいもあるのかもしれない、触れられたところが熱を持って、そこから燃えはじめそうだ。うめき声が漏れそうになるのを、身体を強張らせて耐えた。


 縁側に足を突き出すように座らされる。並んですぐ隣に近藤さんが座った。
 さっきまで感じていた虫の声も風の音も草の匂いも、このひとにかき消されて、今は殆ど薄れてしまっている。まるで世界にこのひとしかいなくなってしまったようになる。なんて残酷なんだろうと思う。
 動揺を察されまいと背を向けたら、体重が崩れて却って近藤さんに寄りかかるようになった。慌てて咄嗟に身体を離そうとすると、反対の肩に回された手が俺の身体を引き留めた。
 「な…」
 力の入らない腕で突っ張ると、近藤さんがすねたように云う。
 「なんだよ、オッサンに寄りかかるのもイヤだって?トシ酷い!」
 「バ、ちが」
 そういうんじゃねえけど、と口ごもると、肩に置かれた手にそのままぐいと引き寄せられた。
 「いいじゃねえか。何照れてんだよ」
 瞼のすぐ先で唇が屈託なく笑う。
 密着した体温と、体越しに響く声に煽られる。
 かみ殺した百万回の「好き」が、身体のあちこちでざわめきだす。今までどうやって堪えていたのかわからなくなる。もしかするとこんな風に酔って正体がなくなったとき俺は何か口走っていやしないか。


 「ばか」
 飛び出してきそうな言葉の代わりに俺はため息をつくみたいに云った。
 「あんたはばかだ」
 声は涙声になっていた。 我ながら情けないと思うけれどどうしようもない。
 女に入れあげて、そのたび振られて、バカ正直で惚れっぽくて、いいように扱われてるのにも気づかない。つっかえつっかえ、俺はそんなようなことをまくし立てた。
 「そうだな」
 近藤さんは腹を立てる様子もなく、うんうんと相槌を打つ。耳とこめかみを覆った手のひらが、子供をあやすみたいに動く。
 そんなあんたに惚れている俺は救いようのないばかだ。
 
 息がうまく吸い込めなくて咳き込んだ。手は背中に降りてきた。
 「飲み過ぎだ。もう寝ろ」
 優しく宥められて泣きたくなる。

 「…らい」
 吸い上げた空気は鼻梁の裏から喉を通って、ひゅうと鳴った。
 「あんたなんてきらいだ」
 「…トシ?」
 いぶかしげな声が俺を呼んで、次のせりふを待つように頬を骨ばった指が撫でる。
 きらいになりたい。こんな鈍い、デリカシーのない、不器用な、
 この優しい人を、俺は忘れてしまいたい。
 「くるしい」
 くるしい、と繰り返した。あくあくと息継ぎをするように口を開く。
 水の中にいるみたいにくるしい。呼吸がうまくできない。

 「そうか」
 穏やかな声が云った。それから顔が温かなものに押し付けられた。嗅ぎなれた汗のにおいで、抱きしめられているのだとわかる。
 
 「なあ、でも好きなんだろう」
 促すような声音に、俺が逆らえるわけもない。
 腕のなかでこくりと頷く。裏返ってしまいそうで声は出せなかった。
 「じゃあ好きでいろよ」
 近藤さんの声が甘く響いて、夢か現かわからなくなる。
 俺の目は既に潰れている。でも近藤さんが呼ぶから、俺は木偶みたいに何度も頷いた。好きでいる。あんたがそれを許してくれるなら俺は、いくら苦しくたってあんたを好きでいる。

 頬を塞いでいた肌が離れて、代わりに唇をぬるりとした体温が塞ぐ。唾液がちゃぷちゃぷと音を立てるのを、俺は必死で吸った。
 夢かも知れない、たぶん夢だ。でもそれでもいい。
 こんなに甘い夢なら醒めて欲しくない。