ドッグンドール・1


 なだらかな白い背中には、ひきつれたような刀傷がいくつも散っている。
 その疵の色と数と形とを、おれはすっかり憶えてしまった。
 
 犬みたいにして覆い被さることだけがおれに許されている。
 前から覗き込むような体位を取られる事をこのひとは望まない。望まない事をおれはしない。
 だからおれがこのひとについて知ってるのは、伝う汗の感触と、耐えきれずに漏らす呻きと、それからこの背中だけだった。


 事が終わるとこのひとはおれに背を向ける。一度も目をあわすことはない。
 体を拭いたりもさせてくれないので、おれは自分の身づくろいをするともうすることもなくなってしまう。それでも口には出さないけれど、このひとは寝付くまでおれにここにいてほしいらしい。
 どうせ見てやいないだろうと思いつつ、襟を引いて背筋を伸ばした。
「山崎」
 かすれた声に呼ばれて、顎を上げる。身体ごとそちらを向いたので腰と膝の下で衣擦れの音が立った。
 その大仰な動作がこのひとの気に障るらしく、厭な顔をされるが仕方ない。
 このひとの声はおれに電気を流すのだから仕方ない。

 「煙草、寄こせ」
 肩が少し回って、こちらに手のひらが差し出される。
 「寝煙草はいけません」
 間髪をいれずに返事をしたら、は、と嘲るような声が笑った。
 「お前も随分な口を聞くようになったな」
 すみません、と小声で謝る。苛立ったように肩が揺れた。
 「もう寝る」
 「はい」
 躙り寄って、毛布をかけようとしたら肘で払われた。
 「余計な事すんじゃねぇ」
 二度目のすみません、が反射的に口から漏れそうになって、すんでのところで止める。


 そうして沈黙が部屋を埋め始める。

 放って置かれるのには慣れている。別に構わない。
 この関係そのものが、このひとの自慰行為に付き合っているのと何も変わらない事をおれは承知していたし、このひとがそれ以上一歩も踏み込ませたがらないことも知っている。
 だからおれとこのひとは「ふたり」にはなれない。いくら身体を重ねたって何も変わらない。どこまでもひとりとひとりだ。それはやるせなくもあったけれど、おれがおれであるかぎりいたし方ない事だとわかっている。


 さっきまで立ちこめていた吐息と青臭い匂いはもうなりを潜め、かわりにぴんとはりつめたような空気が八畳間に満ちている。
 急に部屋が広くなったように感じて、六月だというのに背筋に鳥肌が走った。酒の染みや煙草の跡で薄汚れた畳を、膝でなぞるようにして足を崩す。

 副長室は和室だが調度は洋風だ。箪笥と書き物机、布張りの小さなソファが壁沿いに並べてある。天井まで迫った箪笥の角をぼうっと眺めるうちに、閉塞感のようなものがおれを襲った。
 しとりしとりと壁越しに雨の音が届く。
 家屋が小さく軋む音。水を吸った木の匂い。湿気た空気に息苦しくなる。




 あの日もこんな雨の日だった。




 半時ほど前に廊下を渡ったとき副長室からは局長の笑いと副長の声が漏れていたから、ああ今日も二人で呑んでいるのだなと思った。
 用事が済んで自室に戻る途中、ちらりと様子を伺ったら、声がしないのに灯りがともっているようだった。寝転けてしまったんだろうかと考えて、邪魔にならないように電気だけ消してやろうと、足音を忍ばせて部屋に近づいた。
 障子は一寸ばかり開いていて、片目で覗いて、次の瞬間おれは後悔することになる。


 副長は起きていた。膝の上に酔いつぶれた局長の頭を載せ、その頬をそっと撫でていた。節目がちに見つめる横顔は思いつめたようだった。そしてそれが何を意味するのか、おれには厭でもわかってしまった。

 おれはもう随分前から、副長の事が好きだった。女性を想うように彼を想っていた。
 だから彼の視線の追いかける先に誰がいるのか、肩を預けきるのは誰なのか、知らなかったなんて云わない。だからこそおれは報われようだなんて身の程知らずなことを考えないでいられた。


 肩がそっと沈み、寄せた唇が一瞬重なる。おれは目を離せなかった。
 思わず足の裏に力が入って、ぎしりと床板が鳴った。しまったと思った。
副長の上半身が、ばねが戻るみたいにして起き上がった。そのままゆっくりと振り向く。
 
 思わず体を竦ませたけれど、怒号が飛んでくることはなかった。
 代わりに呆然としたような声がおれを呼んだ。
 「やまざ、き…」
 見上げた瞳は酷く頼りなく、取り繕うことも忘れたように潤み揺らいでいた。その目があんまり痛々しかったから、あんまり無防備だったから、だから、
 おれはそこにつけこもうと思った。






 寝息が聞こえ始めたので、おれは手にしたまま腿の上に置いていた毛布をそっとかけた。
 こんなに近くにいても背中は遠くて、そのあまりの距離にくちびるを噛む。
 すべて納得ずくだ。後悔なんかしていない。自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
 そうおれは後悔なんかしていない。

 膝立ちになり、最後の照明を落とす。仕事柄すぐに目が慣れる。暗闇はおれの目には漆黒ではなく、漆黒にならない世界はどこまでもおれに優しくなかった。