こんどう、いさお。 おれはひまさえあれば手に書かれた名前をなぞる。ここにしかよすががない。 何度見ても、聞いても、覚えられない。 砂がこぼれおちるみたいに、ぼろぼろと指の隙間から逃げていく、記憶、声、仕草、笑い方。それはかつてのおれの殆どを占めていたものだ。なんでそんなに大事なことを、おれは忘れてしまったのだろう? 一日の殆どは意図して彼といるようにする。離れていたらすぐに忘れてしまうからだ。 談話室で湯冷ましをして、もういい時間だから寝ようと誘われて、彼と一緒に宿舎棟まで歩いてきた。 おれの部屋まで来ると、彼はおやすみ、と声をかけてきた。おれは障子を手にかけたところでやめて、隣の部屋に入ろうとする彼を追った。 「トシ、どうした?」 「あんたの部屋で寝ていいか」 少なくともそうすれば、明日目が覚めてすぐにあんたに名前が聞けるからだ。 彼は眉を八の字にして、もちろん、と頷いた。 「俺もお前に話があったし、ちょうどいい」 おれは自分の部屋から布団を持ってきて、彼のそれに並べて敷いた。 彼は押入れを閉めると、おれにくるりと向き合った。 「話って?」 忘れてしまわないうちに、と促せば、彼は顎を引いて腕を組んだ。 「なあトシ、お前、ここを出て働く気はないか」 「え、」 「お前がこのままだと、二人揃っての公務は無理だ。連携がなくなり足元をすくわれたら組全体を危険にさらすことになりかねない」 それから滔々と、いくつかの具体的な職場の説明を始めた。どこは待遇がいいだの、どこならおれの能力が発揮できるだの。 彼の言葉の意味がすぐにはわからなかった。じわじわと、おれを遠ざけようとしているのだと理解するに及んで、頭が爆ぜたかと思った。 「いやだ、聞きたくねえ」 「トシ、聞いて」 手を伸ばされ、悲鳴じみた声が喉から漏れる。 「いやだ、」 塞いだ耳の隙間から、彼の優しくて低い声が沁み込んでくる。 俺は、お前が俺のことを好きじゃなくなっても、俺のことをすっかり忘れても、もう二度と会えなくなっても。お前のことを愛しているよ。 誰よりお前が幸せで、いて欲しいんだ。 そんなの勝手に決めんな。 憤りよりも恐怖で体が凍りついた。あれだけ欲しかった言葉が今は全然嬉しくない。 肩に置かれた手は温かくて、おれの体から無理矢理力を奪ってしまう。えづいて声が上手く出てくれない。涙声を出せば、 「疎ましいのか、おれが」 「違う、」 彼は打ち消すように強く首を振ったけれど、それだっていい。おれがあんたにとって足手まといにしかならなくっても、どんなにあんたのためにならなくても。想像だけで目の前が明滅するけれど、でもどうしたっておれは、あんたを失うわけにはいかない。 おれは彼の浴衣の袷を掴んで引っ張った。もつれたのは俺の足で、布団にひっかけてバランスを崩して彼の胸板に倒れこむ形になった。喉からは潰れたような声しか出てくれない。 「頼むから。おれから、あんたを取り上げないで」 だって。 あんたなしじゃおれは、満足に息だってできない。みっともなくても無様でも、あんたの足元に身を投げ出して縋るしかない。そうだこれは命乞いだ。 「頼む、」 あんたの顔が見れない。あんたがどんな顔をしてるかさえもうおぼろげになってしまっている。 頭はあんたのことでいっぱいなのに、名前さえ出てこない。目の前はペンキをぶちまけたみたい真っ白で燃えるようだ。 どくん、と跳ね上がった鼓動が、じくじくといやな疼き方を始めた。全身から汗が噴き出してきて、ぐぅ、と動物のような唸りが喉から漏れる。 「トシ、トシ?」 膝が崩れて視界が反転する。彼の声が焦ったように上から降ってくるのを、遠のく意識で聞いた。 111011 |