空白のきみ・3



もう三日になる。カレンダーを見て、まだ三日しか経っていないのか、と愕然とした。

副長は何度説明しても、局長のことをすぐに忘れてしまう。離れていると十分も持たず、一緒にいても一時間も経つと不安げに「あんた誰だっけ」と尋ねている。
局長はつとめて堪えていないようにふるまっているけれど、夜はよく眠れていないようだ。彼特有の無駄に元気いっぱいなオーラがどこか影を潜め、他の隊士たちにもだんだんと不安が波及している。
繰り返し名前を教えているさまは見ていて痛々しい。他に関しては変わりないからこそ、その痴呆のお年寄りみたいな言動が訝しい。

副長のことだから確かにどこかで頭をぶつけてきたのかもしれないのだけれど、それにしたって忘れているのは局長と局長に関することだけ、なのだ。どこか作為的なものを感じざるを得ない。

副長の弄っているライターを、ちょいと指さして局長が言う。
「これ、俺が買ってやったやつなんだぜ」
副長は局長の顔とライターを見比べると、悲しそうに首を振る。
「……すまん、思い出せない」
オレは二人の会話に居心地が悪くなって談話室を出た。
出たところで廊下の先、日当りのいい縁側に寝転がる沖田隊長を見つけて、大股で近寄って行く。
こういうタチの悪いいたずらをしそうな人物に、心当たりは一人しかいない。


「沖田隊長」
ちょっとおいたがすぎると思いますよ、殴られるのも覚悟でオレは低く伝えた。変な薬か、なにかのまじないか。悪ふざけにしたって笑えない。
隊長は起きていたようだった。身を起してその場に座り直すと、外したアイマスクを人差し指でぐるぐると回す。
オイ山崎、と抑揚のない声が応えた。
「土方さんがボケてんのが、俺のせいだとでも?」
そう切り返されて、オレは眉を寄せた。
「いや、だって、」
何か超常的な力が働いているとしか。そこまで考えて、オレはふと、願いをかなえるという天人のことを思い出した。そういえば副長がおかしくなったのはあの朝からだった。
「願いを叶えてくれるっていう、幸配星の大使がいたじゃないですか。もしかしたら、あの、七百七十七人に、中ったってことはないですよね?」
「俺がか?」
オレはつっかえつっかえ訴えた。
「沖田隊長が副長のなかから局長の存在を消しちゃいたいと思ってたなら、その願いが叶っちゃったってことも」
隊長ははあ、と大げさに肩を落として見せた。
「ちげえよ」
そんな中途半端なことなんか願うわけがない。もっとシンプルに死んでもらうか、インポにしてるか。忘れてもらうにしても近藤さんのほうだろうが。
「何より俺が副長になってねえだろィ?」
だから俺じゃねえよ。そう断言されて、オレには返す言葉もなかった。全く正論だ。隊長は忌々しそうにぼやいた。
「近藤さんを凹ませるようなこと、俺が願うわけもねえ」



副長が巡回から戻ってきて、玄関に上がるまでを見届けて、おれはぶんとラケットを振りぬいた。壁に当たったシャトルを回収するためにしゃがむ。
「山崎」
しゃがんだところですぐ真後ろから声をかけられた。
「はい」
振り向けば、腕を組んだ局長がさらに一歩オレに近づく。足元で砂利の音。暮れなずむ夕陽を背に受けて、影がオレのものとひとつになった。
「トシの働きぶりはどうだ」
「や、そっちは問題ありません」
ルーチンワークはいつもと同じ調子で、危なげなくこなしている。いつもよりちょっと不機嫌だったり落ち着かなかったり、あと、やっぱり剣のキレが悪い気はしますけど。そう言い添えれば、そうか、と局長はうなずいた。長く息を吐き、目を眇める。一呼吸置くと口を開いた。穏やかな口ぶりだった。
「あいつはどこでだって望まれる人材だ。腕も立つし頭だって切れる。何より勘がいい。俺の下で腐ってなきゃいけないなんてこともない。とっつぁんに打診したら、関係各所から引く手数多だろう」
「え、」
オレは一瞬何を言っているかわからず、思い当たったことを打ち消すために首を振った。
冗談めかそうと口角を上げたけれどひきつってしまって上手く笑えなかった。
「局長、何を、」
「式典なり、公の場所に揃って顔を出さなきゃいけないこともある。いつまでも俺がわからないようだと、どうしたって支障が出る。第一俺達には敵が多い。こんなことが露見したら弱味と握られてしまうだろう」
異論を挟めず、オレは代わりに唇を噛む。そうだ、オレは意図的に、このまま戻らなかった場合なんて考えないようにしていた。
局長は伸びをして、遠くを見遣る。
「トシな、このまま思い出さないほうがあいつのためかもしれん。どこか新天地に行って切り替えてやっていけるのなら、そのほうがいいのかもしれん。新しい、もっといい縁と出会うこともあるだろう」

オレはもう黙っていられなくなって拳を握った。
「局長!」
そんなことを副長が望むものか。どれだけあのひとがこのひとを慕って、そりゃもう暑苦しいほど盲目に、脇目も振らずに尽くしてきたか。女好きのこのひとにいちいち歯軋りしながら、痴話喧嘩を繰り返しながらもどれだけ長いこと密に連れ添ってきたか、近くで見ていただけのオレにだってわかる。
言いたいことならいくらだってあって、でも局長の顔を見たら、もう何もいえなくなってしまった。

「あいつが焦ってるのもわかる。でもそんなに無理して俺を思い出さなくたっていいんじゃないのか」
逆光のそれは、泣き笑いのような、頼りない笑顔だった。オレは局長のこんな表情を見たことがない。
「近くにいるからお互いに、あきらめがつかなくなっちまうと思うんだ」




111006