空白のきみ・2




ぜんたいひどい気分だ。

一晩寝て起きたらまた、すっぽりと彼のことは頭から抜け落ちていた。まるで消しゴムで消したみたいにきれいに。
彼を見ておれは戸惑う。知っていた、ということだけはわかる。それもずっと長いこと。頭の中に引き出しはちゃんとあるのに、開かない。開けられない。

仕方がないのでおれは名前を尋ねる。名前を何度聞いても、彼は根気よく答えてくれる。
こんどう、いさお。仕舞いにはおれは自分の手に大きく書いた。これで少なくとも手を見ればわかるだろうと思う。


仕事ならできる。手順も段取りも覚えているからルーチンワークに不自由はない。
けれど道場で竹刀を握っていても落ち着かない。いつもならそれだけで頭がすっと冷えて自然と背筋が伸びるものなのに。
常にもやもやにとらわれているせいでめっきり煙草の本数が増えてしまった。


空欄だらけの記憶。どこもかしこも虫に食い荒らされたみたいになっている。十一のときには家を飛び出して、破れかぶれのひどい生活をしていたのに、十五の記憶ではじじいの道場にいて熱心に竹刀を振っている。その間を繋ぐものがない。その間におれは百八十度ぐらい違う人間になっているのに、その転換点がわからない。
自分のことが自分でわからない。ばらばらになったみたいで怖ろしくすらある。

剣と、マヨネーズ、煙草。総悟。あいつからの敵意。真選組に有象無象に集まった連中と俺の間の奇妙な連帯感。
全ての向こう側にそれを結びつけてひとつにするものがある。おれの行動理念の根幹にあって気力の源。
意識をそちらに向けようとすると、途端にもやがかかったみたいになって、近づくことができない。
ぽっかりと体の中に空洞が空いたようでおぼつかない。腹から力も出ない。

なんでおれは彼のことを忘れてしまったんだろう。こんなに根こそぎ自分が危うくなってしまうんだから、彼が大切なひとだと、おれにとってかけがえのない存在だということは明らかなのに。




ああほら、まただ。
談話室に見慣れない男の姿があって、おれはぶるりと首を振った。
その見慣れない、という感覚もどこかおかしい。おれは覚えているはずなんだ。手が届かなくてもどかしい。

「おお、トシ」
呼ばれてはっとして面を上げた。そんなふうに馴れ馴れしく呼ばれれば腹が立つはずなのに、安らぎと高揚に似たものが身の内で閃く。けれど反芻する暇もなく、それもすぐにかき消えてしまう。おれは歯噛みをする。
彼は眉を寄せるおれに近寄ってきて、なにがしかを手渡してきた。掌を開けばまんじゅうが載っている。
「とっつぁんの草津土産だって。組で一箱とかけちくさいよなぁ」
とっつぁんならわかる。それなのにとっつぁんの話をするこの男の、名前もおれはわからないんだ。
「あんた、ええと」
彼はちょっと笑って、おれの手元を指差した。はっとして見て手の甲の文字を読み上げる。おれの字。おれが自分で書いたものだ。
「こんどうさん、」
その名前は手にしっくり馴染む刀のように、おれの鼓膜を震わせる。舌に乗せればするりと出てきた。もうきっと何千、何万回も呼んできたのだろう。

顔を見ているとひどい焦燥感に駆られる。凛々しい眉も彫りの深い鼻筋も、こちらを見るどこか慈しんだような目も。
右腕、相棒、親友。それだけじゃない、きっとおれは彼に恋愛感情も抱いていたのじゃないかと思う。
でももし違ったら、と思うと、そんな曖昧な予感だけを根拠に確かめるのも怖い。


おれはいたたまれなさに貰ったまんじゅうのビニールを剥いた。大口を開けて放り込めば空気ごと飲んでしまったらしく、器官に入って、げほげほと噎せてしまう。
「ばかだな、ゆっくり食え、」
大きな手が背中を擦る。そう、この仕草だっておれはよく知っているはずなんだ。おれは息を整えて、掠れた声で言った。
「こんどうさん、」
「うん?」
手首を遠慮がちに掴む。彼は振りほどかない。それを嬉しいと思った。嬉しくて苦しいぐらいだった。

「おれ、あんたのこと、早く思い出したい」





111005