声を荒げたトシの顔は死人みたいに蒼ざめていた。 俺は呆然とトシを見た。 俺は何か気に障るような事を云っただろうか。それにしたってそんなに深刻な会話じゃなかった筈だ。 いつも動揺を表に出さないように振る舞っている彼が、ここまで顔色を無くすなんて並大抵のことじゃない。 トシは机を叩くように拳をついて、両肩に顔を沈めた。固く握り締められた拳は血の気が失せて白くなっている。 さんざん声を掛け倦ねた末、俺の口からは意味のない言葉がもれていた。 「どうした」 肩にかけようとした手はすげなく振り払われる。 「、でも、ねえよ」 「なんでもないってこたないだろう」 伏せられた表情が見たくて、少々手荒に肩をつかんで上向かせる。 トシはそれでも俺と目をあわそうとはせず、眉を寄せあさっての方向を睨んだ。 睫が揺れる。顔色は真っ白なのに、目元だけかなしいほど紅潮していた。 引き結ばれた唇が微かに戦慄くのに、おれは何故か急に心細くなってきた。 俺はトシのこんな顔を見たことがない。トシの表情なんか全部知っていると思っていた。寂しいときどんな顔をするのか、怒ったときどんな顔をするのか、苦しいときにどんな顔をするのか、残らず全部知 っていると思っていた。それなのに、この顔はそれのどれとも違う。 そう考えたらこのトシは俺の知っているトシじゃないみたいで、なんだか今まですぐ隣にいると思っていたトシが実はそこにいなかったような、そんな気持ちになって心許なくなった。 「何だ、どうしたんだよ、云ってみろ」 懇願しているように響く自分の声を情けないと思ったけれど、なりふり構っていられない。 「なあトシ、云えよ」 肩を何度も揺さぶる。しばしの沈黙の後、ようやくトシの口が開いた。 「…、おれは、」 絞り出したような声は嗄れていた。 「…女じゃ、ねぇよ」 「すまん、からかったつもりじゃ」 トシは俺のせりふをかき消すように首を振った。 「んな、だったら、良かったのか」 咄嗟に真意が理解できなかった。けれどざわざわとした、おかしな予感のようなものが俺を捕らえる。 俺は固唾を飲んで、次の言葉を待つ。 掠れた吐息の下から、引きつったような言葉が届いた。 「女だったらアンタに、あいしてもらえたのかよ…ッ」 そもそも俺の知っていたお前なんてものは本当に存在していたのか? なんで俺なんだ。 なんで今なんだ。 なんで。なんで。 そればかりがぐるぐるぐるぐる、頭を回ったけれど、答えが俺の中にあるわけがない。 額を押さえていた拳をふと退けて、トシのほうを見遣る。 先ほどから突っ伏したままぴくりとも動かない。 その背中が訳もなく子供のそれみたいに小さく見えた。大の男を捕まえてその感慨もどうかと思うけれど、その形容が一番しっくり来ると思った。背中は頑なに、俺を拒んでいるようだった。 俺はこいつに何をしてやれるんだろう。 テーブルの上の灰皿には煙草が、フィルターを焦がして燃え尽きている。 俺は目のやり場がなくて、燻る灰を眺めていた。 「…自分勝手云って悪いけども、さっきのは忘れてくれ」 はっとして隣を見ると、トシは背筋を伸ばし、居住まいを正していた。 「聞かなかったことにしろ。意味なんか考えるな」 目は伏せたまま。相変わらず俺のほうを向こうとはしなかった。声は落ち着いているけれど痛々しく嗄れている。 「それで元通りだ。な」 元通り。元通りとお前は言うけれど、元通りになんかなりっこないことくらい、俺にだってわかる。 今にも立ち上がってしまいそうなかれを引き留めようととっさに伸ばした腕は、筋張った手首を捕らえていた。 「…離せ」 「トシ、でも」 「これ以上おれに恥をかかせないでくれよ」 トシの向ける頼りない笑顔に、焦燥はどんどんとせりあがってくる。 離せない。今手を離したら今度こそ、こいつを永遠に見失ってしまう。そんな確信があった。 「離せってば」 「いやだ」 揉みあいになり、トシも本気で抵抗したようだけれど、腕力で俺に適うわけがない。 頑として離そうとしない俺に、観念したのかトシの肩から力が抜けた。 掌の中の肌が汗できちりと鳴った。 どうしたら。どうしたらお前を繋ぎとめることが出来るんだ? それだけに支配された頭で、俺は考えなしに言葉を紡いでいた。 「だって俺だってお前のこと好きだし、」 「あんたバカか」 トシは頬に朱を走らせて喚いた。 「あんたの好きとおれの好きは違うんだよ」 云われて、俺は口を噤んだ。それは確かに真実だろう。 「どういうことかわかってもいねぇくせに、」 言い返せずに言葉を呑む。 俺はただもどかしい。 「あんた、抱けないだろ」 鼻先で噛み付かれる。正面から覗いた目は涙を湛えていた。 「同情で男なんか抱けないだろ、だから」 トシが発音しきらないうち、俺は後先考えず目の前の体を抱きしめた。 抱き込んだ躯がびくりと引きつる。かまわず腕に力を込める。 これでおまえを引き留められるというなら、 そんなの造作もないことだ。 |