gokko・2


斜め一歩前を歩く総悟はまだ口を聞こうとしない。

こんなふうに総悟が不貞腐れて、悪態を吐いても腹は立たない。
こうして臍を曲げている間は、おれは自分の役割を自覚していられるから。
おれはこいつが子供じみた駄々をこねてくれることに、感謝すらしている。




こいつは憶えていないかもしれないけれど。
まだ近藤さんの道場に来て間もない頃、ふくれっ面のこいつが云った一言をおれは忘れることが出来ない。

『こんどうさんはあんたのものにゃならねぇよ』

そう、あんなに気持ちのよく懐の広い、誰をも魅了してやまない、健やかで真っ直ぐなひとが、
おれのものになんかなるわけがない。そんなこと火を見るよりも明らかだ。
この独占欲を初めて自覚したときは愕然とした。こんなに女々しい、禍々しい、
歪んだものが自分の中にあると知って怖気が走った。



息を吸って、吐いて、何度も繰り返し自分に言い聞かせる。
おれは恵まれすぎるほどに恵まれている。望まれてあのひとの傍で、あのひとと運命を共に出来るんだから。
おれはこの関係に満足しなければならない。しなければ罰があたるというものだ。
実際、かみ殺すことにだって随分慣れたと思う。

膨大な、
煩雑な日常が、おれの上を行きすぎて行って、
警邏をしたり、カチコミに行ったり、始末書を書いたり、下らない話で笑ったり、泥や血にまみれたり、煙草や酒を喰らったり、
ふと空を見上げて、それが青いなぁとぼんやり思ったり、
している間に、
そんな莫迦らしい感情が自分の中にあることを忘れてしまえそうになる。
いつも、これで大丈夫だと、みんな気の迷いだったと、そう思って胸を撫でる。ほとんどの時間はそうやって穏やかに過ぎて行ってくれる。

それでも時折、不意におれを根刮ぎ攫っていって仕舞うような衝動が、おれをどうしようもなくさせることがある。そのたび胸の奥深いところに落ちない汚れのようにこびり付いているのをいやでも自覚させられる。

このあまりに浅ましい情が、尊敬や友愛や忠誠や、そういう無害なものに埋まって消えてしまうのをおれはもう長い間待っている。待っていることしかおれにはできない。


それは塗炭の苦しみだ。







屯所に戻った頃にはとっぷりと日も暮れていた。
がらんとした食堂の端と端で飯を食い、総悟はごちそうさまも云わずに席を立った。
皿の飯が空になっていることだけ横目で確認して、俺は煙草に火を付けた。
もう大丈夫だ。これできっと、明日は何事もなかったかのように口を聞くだろう。


「トシ」
さっき総悟の出て行った扉から、聞き慣れた声がおれを呼んだ。

「今メシか」
廊下から近藤さんが顔を出し、ひらひらと手を振った。脇に書類のようなものを抱えてる。おれはとっつぁんが今日の夕刻頃屯所に顔を出すと云っていたのを思い出した。何かまた面倒ごとでも押しつけられたんだろうか。
近藤さんはいくつも椅子にぶつかりながら俺の方へ近づいてきた。

「よかった、さっき廊下ですれ違ったけど」
細かな表情がわかるくらいまで近くに来ると、近藤さんは眉尻を下げた。
「総悟の機嫌、直ったみたいだな」
「ああ」
紫煙を細く吐き出して応える。
「メシ喰ったら直ったよ、アイツもまだまだ子供だな」
云いながら、灰皿を引き寄せて煙草を置いた。
「すまないな、いつもこんな役回りで」
「今更だろ」
今に始まったことじゃない。総悟がああいう拗ね方をするときは、おれじゃないと駄目なのだ。それは双方承知の上だ。
総悟の機嫌を損ねている原因が何かなんて、このひとには想像も付いていないだろうけれど。


だだっぴろい食堂は、俺たちのいる区画だけ蛍光灯に照らされて明るい。
煙草の煙が向かう先の、しんとした薄暗がりのほうに目を遣っていると、隣の椅子が引かれて、大仰な仕草で近藤さんがどっかと座った。
それから机の上に、手にしていた茶封筒を投げ出す。

「なんだそれ」
「ああ、とっつぁんがな」
ここんとこよく見合いの話を持ってくるんだよ、今日もわざわざ押しつけに来やがって。そうぼやいて、唇を尖らせ眉を寄せる。
「俺にはお妙さんがいるって口酸っぱくしてんだけどな。あのオッサン、そろそろ年貢の納め時だとかなんとか。納めるもなにも収穫もしてねーっての」
「はは」
おれは目を伏せて笑った。

いま近藤さんがご執心のあの女、今でこそ気のない素振りで袖にしているけれど、このひとを好きになるのも時間の問題だと思う。
口では何と云っても、本心ではそう満更ではないと思っているに違いない。
こんなにいい男なんかどこを捜したってそういない。あの女もよほどの莫迦でなければいずれそれに気付くだろう。

そう、いっそ。
いっそこのひとが誰かのものになってしまえば。
愛妻弁当を見せびらかされ、子供の写真をみせつけられ、心の底から幸せそうに笑う彼を見れば。
今は想像だけで苦しくなってしまうけれど、その痛みにもやがて慣れるだろう。

だって泣いても喚いてもどうしたって、
朝は来るし腹は減るし世界はなくなってしまわないだろう?




おれはかれに気付かれないように、拳で軽く自分の胸を叩いた。
なあそんなに軋むなよ。
情けねぇぞ。

「大丈夫だよ。あんたなら」
「ん?」
「こんないい男に、振り向かない女なんかいねぇよ」


近藤さんはおれのほうに向き直って、歯を見せて笑った。
つられて目元を緩ませると、えくぼを作って口を開いた。

「トシが女だったら絶対オレが嫁さんに貰ったのになぁ」


どくん、と心臓が膨らんで、弾けるかと思った。
すごい速さで額に血が集まってくる。おれは眩暈に耐えて目を見開いた。
鎮まれ。冗談だ、こんなのただの軽口だ。

おれは顔を逸らして軽く俯いた。
呆れたような声音を作って、会話を一刻も早くせき止めてしまわなければならない。
「よせよ」
喉からは掠れた声しか出なかった。言葉が続かない。
おれは小さく頭を振る。口を開くけれど頼りない息が漏れるばかりだ。


「冗談じゃなくてよ。ほんとによ」
それだのに、容赦なく、
「こんなに俺のことわかってくれて、仕事も出来て、おまけにべっぴんで、」
矢継ぎ早に、耳を襲う、
「さぞや俺には勿体ないくらいの、理想の嫁さんになっただろうに」
残酷な、
「誰にも渡さねぇ。真っ先に俺がかっさらうのに」
あまりに残酷な、


「ああほんとに、お前が女でありさえしたらなぁ」


「よせ!」




目の前が真っ赤になった瞬間、引きつった自分の悲鳴が耳を劈いていた。