CHEAP・2


冷たい水をばしゃばしゃと顔にかける。
手拭いも使わずかぶりを振って、鏡の中の自分と目が合う。目もとには酷い隈ができていた。

「ひでェ顔」
斜め後ろからぼそりと聞こえた声に振りかえる。案の定総悟が立っていた。
隣に並んで蛇口をひねり、水音の下から無感動な声が言う。
「食堂での立ちまわり、聞きましたよ」
またふつふつと、昨日の近藤さんの表情と声が脳裏によみがえってきて、すぐにいっぱいになる。真っ赤になった頭に、総悟のせりふは淡々と響く。
「そんなにショックだったんですか」
問われてごくり、と唾を飲む。ショックもなにもねえ。
肩にかけたタオルで顔を拭い、総悟はようやくこちらを見た。総悟のガラス玉みたいな目が、見透かすようにおれを映す。

こいつも知っていた。知っていて黙認していた?なんで。なんのために。こいつも、おれと同じにあのひとをお天道様みたいに、眩しくて目を眇めながら崇めて、害するものすべてから護ろうとしてたんじゃないのか?
処理速度が追い付かず、ちりちり言う思考におれは片頬を歪めた。ぐう、と喉で変な音が鳴る。
近藤さんにじゃれつく総悟を思い出して、想像だけが先走って頭が煮える。
「よもや、てめェも、近藤さんに、」
喉笛に噛みついてやりたい気分だったけれど、絞り出した声は情けなく震えていた。

返答次第ではおれは正気でいられる自信がない。途端に頼りなくなった重心に、バランスが崩れそうになって足裏に力を込める。
ぴりぴりと肌を覆う緊張をものともせず、総悟は肩を少し竦めただけだった。
「ノーコメントにしておきまさぁ」

まぜっかえされた、と思った。思ってあくあくと口を開く。言葉を紡げないでいるおれの代わりに総悟は滔々と語る。

「あのひとは誰にだって平等なんです。それだけ。証拠に相手してもらってる連中も弁えてますよ。誰もそれ以上は求めない。優しさにすがってあのひとを拝んで、ますますあのひとのために親身に働こうって気持ちになる」

連中を擁護するような語調に、さらに頭に血が上った。理屈がどうあれ感情が理解しない。したくもない。
「そんな次元の話かよ、これは近藤さんの姑券に関わることで、」

大将がそんな扱いされてるなんて聞いたことがない。だって示しがつかない。まるで、こんな言葉を連想するのもいやだけれど、便所じゃねえか。
おれは顔じゅうの筋肉を総動員しないと泣きだしそうになっていた。

おれの表情を読んでか、総悟は挑発するでもなくなだめるような視線を向けた。その動揺のなさ、温度差に却っておれは追いつめられる。
言葉はつっかえつっかえ、もう千々に乱れる。それでも思いつくまま言い募った。
「お前は、悔しくないのか、よってたかって、近藤さんのことおもちゃにされて、」

数人の隊士がこちらに近づいてくる足音に気付き、おれはなけなしの理性で強張った肩を下ろした。洗面台の前からどいて場所を開ける。
総悟は聞こえるか聞こえないかの大きさで、ふ、と息を吐いた。朝礼の十分前を告げる銅鑼が鳴る。
「あんたがひっかかってる理由は、」
総悟が去り際に肩口でぼそりと呟いたせりふが、


「ほんとにそれだけですか?」
鼓膜にいつまでもへばりついている。



馬鹿にしてる。悔しい。ひどい。ひどい。ひどい。
おれのほうがずっと、ずっとあのひとのことを大事に思ってきた。尽くしてきた。見返りなんかなんにも求めずになにもかも擲ってあのひとに捧げてきた。

なら、なんで。なんで、あのひとに触れるのがおれじゃないんだ。






いよいよもって頭のなかはぐちゃぐちゃだった。自分でもわけがわからずに、それでも、ずるい、と思った。それで頭はいっぱいだった。


近藤さんの部屋に上がり込んで待つ。電気も点けずにいたら、戻ってきた近藤さんはおれに気づくと、おわっ、と驚いた声を上げた。
「びっくりした。どうしたの?」
電灯のヒモが引っ張られて部屋が明るくなった。眩しさに目を眇める。三角座りで顔も上げないおれに、近藤さんは腰を落として膝立ちで近寄ってくる。
頭に無造作に手を置かれて子供にするみたいに、おれの顔を覗いた。
「どうした?」
ん?と尋ねる、近藤さんは優しい。優しくって、声はやわらかく耳を塞ぐものだから、あとはもうどうとでもなれ、と思った。おれはずっと喉でわだかまっていたことを衝動に任せて吐き出した。
「おれだってしたかったのに、」

言ってしまったらますます顔が見られなくて、おれは近藤さんの腕を掴んで引き寄せ、胸板に思い切り顔を押し付けた。近藤さんの匂いを吸い込んで、ますます胸がいっぱいになる。
「そうなの?トシも?」
髪を撫でながら、近藤さんはくすりと笑った。
「なんだ、水くさい。言ってくれればよかったのに」






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