トシが寝ている事を思い出して、起こさないようにそっとドアを開ける。 小声でただいま、と言えば、しばらくしてからおかえり、とぼんやりした返事がかえってきた。 板間を通って六畳間の戸を開けると、押入れからトシが這い出してきたところだった。 「起こしちゃった?ごめん」 寝ぼけ眼のトシは目を擦りながら首を振る。何度か瞬いて、やっと覚醒したのか不審げに尋ねてきた。 「疫病神は?」 「ああ、ええと、神社に帰るって」 「ほんとか」 声は弾み、目は輝いている。訳を聞いて来るかと思ったけれどそういうこともなく、単純に喜んでいる様子だった。 それから気を取り直したように眉をきっと吊り上げ、腕を組む。 「だいたい、あんたは無防備なんだ。ああいう胡散臭い奴につけ込まれちまうんだから、見境なく世話やいたり構ったりするんじゃねーぞ」 俺は喉を鳴らした。 「それなんだけど、あのさ」 言葉を濁す俺が珍しいのか、トシはきょとんとして次のセリフを待っている。俺は咳払いをひとつした。 「前にさ、ミツバさん見て、自分が近くにいるとあのひとは不幸にしちまうとか、そんなこと言ってたじゃん。あれってどういう意味」 ああ、とトシが頷く。 「わかるんだよ。生きてる人間には身体の周りにゆらゆらしたものが見えるんだけど、その勢いが弱い奴はおれが傍に寄るともっと弱まっちまうんだ」 「俺は?」 「あんたの周りにはぴかぴかしたのが見える。おれが近寄ってもびくともしねえ。こんなにぴかぴかしたやつ見るの初めてだ」 それが先生の言っていた、正のエネルギーってやつなんだろう。先生みたいにちゃんとした用語には当てはまってないけれど、だいたいのところ内容は同じだ。 「あのな、トシ、聞いて」 肩を掴みにじり寄って、先生から聞いた事を、俺なりに咀嚼した内容で喋った。 お前らみたいなのがまともな神様になるにはプラスの力がいること。それで俺はプラスの力の持ち主で、一緒にいると自然にその力を吸収できること。 「何が言いたいんだ」 ちょっと不機嫌そうになったトシにちょっと怯んだけれど、でもこれは大事なことだ。 「だから、お前が俺のこと好きっていうのも、恋愛じゃなくて、きっと本能的な、そう、勘違いなんじゃ」 左頬に衝撃が走る。ぐら、と視界がぶれて足元がよろめく。その場に尻もちをついて初めて、トシに殴られたのだと知った。 切ってしまったようで、口の中に血の味が広がる。 「あんた、おれのことそんな風に思ってたのか」 トシの声はひどく割れていた。 「おれがあんたのこと利用してるだけだって」 「いや、それは」 「だってそういうことだろ!」 もう一度殴られる、と思って身構えれば、トシの顔がくしゃりと歪んだ。睨むとも縋るともつかない、視線が一瞬かちあう。 かちあったと思った途端、ふっと姿がかき消えた。とん、と足元で音がする。 「トシ、トシ?」 驚いて見回すけれどどこにもトシはいない。 俺は続けて呼びかけた。俺の感覚に入り込んでどうのと言っていたから、姿を消すのも簡単なんだろう。 「トシ、どこだ?機嫌損ねちゃったんなら謝るよ、トシ?」 返事はない。 視線を落とせば、トシがいたあたりの畳に、黒くて丸い玉のようなものが転がっていた。黒めのうだろうか、掌に握りこめるぐらいの大きさ。見覚えはない。こんなものさっきまでなかったのに、どこから出てきたんだろう。 「ヘソ曲げちまったのかな…」 ひとりごちてみてももやもやする。なんだか厭な予感がして、その石をぎゅうと握りしめた。 翌朝になってもトシの姿は見えなかった。 学校に行き、バイトをしていてもどこか上の空だった。いつも、それこそトイレにまでひっついてくるトシがいないとこんなに違うものだろうかと思う。 あのとき見つけた石はなんとなくポケットに入れてある。 オイルの種類を三回間違えて持ってきた辺りで、店長に今日は早く上がっていいから、とため息を吐かれた。確かに危険物がいっぱい置いてあるここで、あんまりぼうっとしていても迷惑だろう。俺はお言葉に甘えて予定より一時間早く切り上げることにした。 アパートの俺の部屋に電気がついているのを遠目で見て、階段を駆け上がり、息せき切ってドアを開けた。開けた所でふう、と肩を落とす。ちゃぶ台に座っていたのは総悟だった。 「総悟か、今日はミツバさんは?」 「姉さんは仕事なんで、晩飯をたかりに…」 俺のほうを見た総悟はぱちりと瞬いた。トシがいないことに気づいたのかな。 「あ、トシな。昨日の晩喧嘩して、へそ曲げちまったみたいで。家出かなぁ」 謝ったんだけどな。ばつが悪くて頭を掻けば、総悟は俺をびしりと指差した。 「貧乏神ならそこにいますぜ」 「へ、どこどこ」 きょろきょろと周りを見渡す。総悟には見えるのか。 つかつかとこちらに近づいてきた総悟は俺のジャンパーのポケットに手をつっこみ、ひっぱりだした石を見て目を眇めた。 「変わり果てちまってまぁ」 「え?」 俺は総悟の言葉に面食らって、石を持つ手をがっしり両手で掴んだ。 「こ、これがトシなの?」 「そうでさぁ。いったいどうしちまったんだか」 「な、な、ど、どうしよ、」 混乱する頭で、おれはとっさに先生のことを思い出した。 勢い込んで鳥居に飛び込み、社の戸を叩く。 「先生、先生」 「ここだよ」 声をかけられ、振り返れば笹藪の影から先生が姿を見せた。 「もう年代物だから扱いには気をつけて」 せりふを遮ってにじりよる。 「先生、トシがこんなになっちゃった」 息を切らせてそれだけ言った。掌を広げて石を見せる。 覗き込んだ彼は、ちょっと眉をよせて、なるほど、と呟いた。 「これが寄り代なんだ、かれの」 「よりしろ」 復唱すれば、うん、と頷く。 「僕らは精神力でこうやって人の形を取っている。その意思をなくしてしまえばこんなふうに寄り代に帰ってしまうんだよ」 「意思を?」 「なにかすごくショックなことがあって心を塞がれたり、何かに絶望したり。僕らみたいな存在はとても脆いんだ」 それじゃ、俺が。俺があんなことを言ったせいで、トシはこんなふうになっちまったのか。頭を殴られたみたいにショックで、泣いてしまいそうだった。 「もう戻れないの?ずっとこのままなのか?」 「君が強く願えば、元の姿に戻ることはできるけれど」 「戻れるの!」 詰め寄る俺を制して、先生は諭すように云った。 「落ち着いて、近藤くん」 肩をおさえられて少し下ろす。眼鏡越しの先生の視線は真剣だ。 「君はまだ若い。彼といることで潰してしまう芽もあるだろう。こんなのに取りつかれていたら所帯だって持てない」 僕は。そう前置きして、眼鏡のつるを上げる。 「一生添い遂げる覚悟がないなら、このまま眠らせてやるべきだと思うよ」 091215 |