月が変わったので総悟を受診させに病院へ行く。 受付を済ませたところで、診察室の戸が開いて近藤さんの声がした。反射的にそちらへ目をやれば、彼は子供を挟んで若い母親と談笑していた。 足が瞬間竦んでしまって、手をひいた総悟が怪訝な顔で俺を見る。もうそちらは見ないようにして足早に待合のベンチへと移動した。 俺は何を動揺しているんだ。近藤さんはそういう人だ。俺にしてくれているようなことをきっと若い母親相手にもしているんだろう。親身になるし、子供受けはいいしで、いつも笑顔を絶やさない、あんなひとがもてないわけがないんだ。 あの母親相手に働いているこの不快が、嫉妬の類であると思いいたって、俺は愕然とした。 総悟の診察が一通り終わると、上着を着せかけながら低く聞いた。 「……近藤さんは、カノジョとか、いねえの」 カルテを書きながらぼりぼりと頭を掻く。 「やー、モテねえかんなぁ、どうにも」 謙遜しているのか、その口ぶりを聞いたら頭がもっと真っ赤になった。 「忙しいからなんじゃねえの、合コンとか行ったらひっぱりだこだろ」 自分で喋っているうちに息が苦しくなって、俺は早口で続ける。訪れた沈黙に耐えられなくてちらと見やれば、近藤さんはこちらを眺め、ぽかんとした表情で瞬いている。 「な、なに」 「んなこと言われたの初めて!いやー全然だよまじで」 そう言って、ちょっとばつが悪そうに笑う。 「あとはまあ、付き合ってもこっちが忙しいから、なかなか続かなくてね」 つきん、とこめかみに鈍痛が走って、俺は眉間に力を込めた。 「女に見る目がねえんだ、」 「嬉しいこといってくれるねえ。トシはかっこいいかんな、モテんだろ」 そんなことねえ、と首を振って腰を上げると、肩を腕で抱きこまれてぎょっとした。心臓が早鐘みたいに鳴る。耳元で囁かれて反射的に背が伸びる。 「トシ、看護師さんの中にもファンいるんだぜ。俺仲良くしてるから、先生ズルイとか言われんの!」 俺は顔があげられずに愛想で笑った。そんなことをあんたに言われたって、ちっとも嬉しくない。 この人がいつかどこかの女と結ばれて、子供を作って、家庭を持って。俺に構ったのなんか一時の気まぐれで、そのうち疎遠になって。そういうことを想像しただけで咳き込みそうになる。 自分の中のこの女々しい感情が、最も否定したかった類のものだということを、苦々しいけれどいい加減に俺は受け入れなければならないようだった。 少し買いすぎたかもしれない。スーパーからの帰り道、少ししびれてきた両手を見やってため息をつく。運動不足からか煙草のせいか、持久力のなさがなさけない。持ち手を変えようと坂の下で立ち止まると、荷物をひょいと取り上げられた。 「近藤さん」 びっくりして顔を上げる。近藤さんは仕事帰りとおぼしき鞄を抱えていた。 「いっこ持つよ」 ごめん、と謝りながら、先立って歩く彼を追う。近藤さんの持っている鞄だって重たそうだ。なんだか急に申し訳ない気持ちになる。 「毎日大変なんだろ。うちに寄ってくれるのは嬉しいけど、負担になってねえの」 「ん、平気平気。忙しいっていってもうちの病院はいいほうだよ。個人病院とはいえ無茶なシフトは組んでないし、スタッフも充実してる」 でも、と前置いて、彼はまっすぐ前を見た。 「小児科医って足りてねえんだ、全国的に。みんななりたがらないし、理想をもってやってる人はいてもてんてこまいなところが多い。小児科医は他の専門に比べていろんなケースに対応しなきゃならねえし、トラブルや訴訟にもなりやすい。患者の子供だけじゃなく、親ごさんたちとも向き合わなきゃいけないし」 かれがうちに持ち込んで読んでいた専門書を思い出す。仕事熱心だとは思っていたけれど、ちゃんと信念に裏打ちされたものだったんだな。 「今のとこは居心地いいけど、いろんな勉強してそのうち、医者が足りてない地域に行くことも考えてる」 「そうか、」 聞けばいかにも彼らしい将来設計だった。分け隔てなく誰のことも愛する、俺が好きになったのは彼のそういうところだ。 「そうしたら総悟も、さびしがる」 俺はやっとのことでそれだけ言った。彼は、「今すぐって話じゃねえよ」と笑ったが、慰めにもならない。変な顔を見せたくなくて俺は俯いた。 今日は用事があるから、ここでいいと固辞してマンションの前で別れた。 誰とも顔を合わせたくなくてエレベーターホールを素通りして階段を上る。小走りで登ればすぐに息が切れて、三階の踊り場で中腰になった。呼気を整えれば、どさりとビニールが床に落ちる。拾うことも忘れて、俺はその場にうずくまった。 ばかじゃないのか、俺は。近藤さんが俺と総悟のそばにいつまでもいてくれるなんて、なんで俺はそんな幻想を抱いていたんだろう。 自分じゃ、あのひとを引きとめられない。そんな当たり前のことに俺は傷ついている。傍にいてほしいと願う権利すら俺にはない。 もう甘やかさないでほしいと思う、どんどん俺はつけ上がってしまう。もう充分に手を伸ばしてくれている近藤さんを、もっともっとと欲しがってしまう。 負担になんか、なりたくないのに。 |