きみはひかり・2



夕方総悟を児童館へ迎えに行き、近所のスーパーで買い物を済ます。
マンションに至る坂道に曲がったところで、総悟がいきなり駆けだしたので、おい、と言いながら追いかける。坂の上に大きな人影が見えた。逆光になって眩しい。
「あれ、こんなご近所さんだったんだ」
声でやっと誰だかわかった。慣れてきた目で瞬けば、近藤先生がこちらへ笑いかけている。
「先生のお宅、このへんなんですか?」
白衣を脱ぐとほんとうに医者らしさがなくなる。ジーンズに羽織ったジャケットからはカジュアルなパーカーが覗いている。
「うん。半年ぐらい前にあそこに越してきたんだ。奇遇だねー」
指差しているのはうちのマンションのむかいのアパート。偶然ってあるものだ。
「ちゃんと自炊してるんだ、偉いね」
俺のぶら下げているビニール袋を見てそうコメントするので、俺は気まずくて言い訳をした。
「あ、はい、でも」
料理はほとんどしたことがなかったので四苦八苦している。そんなようなことを弁明すると、先生はひょいと自分を指差した。
「あ、じゃあ俺今日作ろうか?」
申し出に目を丸くして、慌てて首を振る。
「や、そこまでしてもらうわけには、」
ただの患者とその保護者というだけの関係なのに。
「食べる」
話に割り込んできたのは総悟だった。先生のジャケットをぎっちり掴んで、ぶら下がりかねない勢いだ。
「近藤さんのご飯食べたい」
「総悟もこういってるし。迷惑じゃなかったら」
総悟は一度言い出すと頑固極まりない。俺は恐縮しながらも、お言葉に甘えることにしてしまった。


俺の買ってきた食材と、冷蔵庫を見渡して、よし、と腰に手をあてる。総悟がどこからか持ち出してきたミツバのエプロンを締めた彼は、ぐるっと振り向いて聞いてきた。
「中華鍋ある?」
身体の大きさも手伝って、いちいちアクションがでかい。気がする。でも俺はなぜかこれが嫌いじゃない。
「すみません、もともとひとり暮らしなのででかい鍋とかなくって」
「おっけー。あや、みりんもないね。あ、大丈夫、メニュー変更した」
てきぱきと動く先生に、所在なくて聞く。
「あの、お手伝いは」
「あ、いいよ。リビングで待ってて」
確かにこの狭い台所に男二人は無理がある。手伝う、とはりきっていた総悟は、先生の「宿題やったか?」の一言で固まった。ランドセルを前に抱えて、素直にリビングのほうへ向かって行く。ほんとに、先生の言うことはよく聞くんだな。
「すみません、先生、ほんと」
去り際に一礼すると、先生は自分を指差して言った。
「近藤」
「へ」
「近藤勲っての、俺」
「近藤、さん」
促されるまま口に出せば、さんもいらないんだけど、とちょっと照れくさそうに言った。


「簡単なやつしかできなかったけど」
三十分もかからず食卓に並んだのは、」じゃこ入りの味噌汁と色とりどりの野菜オムレツ、ミニハンバーグ。付け合わせのにんじんは花や動物の形に切りぬかれている。
「うまい」
一口箸をつけて、思わず唸ってしまった。下ごしらえのせいか、同じ材料を使ったとは思えないぐらい旨い。マヨネーズをかけたらもっと美味しくなりそうだけれど作ってくれた先生の手前そういうわけにもいかない。総悟は見たことがないぐらいがっついている。
「すごいですね、プロみたい」
「大したことしてないよー。簡単にできるレシピいくつか書いて帰るから、試してみて」
「ありがとうございます。総悟、俺の料理はあんまり食べてくれなくて」
学校では給食が出るからいいようなものの、家ではミツバがスパイスを残していた、大人向けのカレーぐらいしかまともに食べてくれない。
近藤さんは総悟に向き直り、こら、と軽くでこぴんする。
「せっかく土方さんが作ってくれたのに、だめだろー」
総悟はごめんなさい、と小声で謝った。謝るなら俺だろ!
「見た目とか、色どりとか。食事を楽しくしてあげるだけでずいぶん食べてくれるようになるよ」
嫌味もなく微笑みかけられて、俺は頷いた。近藤さんは総悟の皿にハンバーグを半分移しながら言う。
「これも食うか」
総悟はうん!と元気よく返事をした。


玄関先、やだやだとごねる総悟に手を引かれて、近藤さんは参ったなと苦笑いする。俺は首根っこを掴んで叱った。
「総悟、わがままいうな。先生は明日も仕事があるんだから」
「いや、明日は休みなんで、時間は大丈夫ですけど」
近藤さんは総悟と俺を見比べて、小首をかしげた。
「お言葉に甘えちゃって、いいすか?」
「え、ああ」
布団がふた組あったことを頭の中で確認して、俺は首肯する。
「せ、狭いですけど、それでもよかったら」

下着だけ取ってくると近藤さんが一旦辞したあとも総悟はハイテンションで、近藤さんと遊ぶのだと段ボールのおもちゃを漁り始めて、上下の住人から苦情が来るんじゃないかと焦ってしまったほどだった。
間もなく近藤さんが戻ってくると、一緒に風呂に入ると言ってきかなかったので、申し訳なく思いながらも任せてしまった。

二人が上がってくるまでに布団を並べながら、自分の頬が軽く火照っていることに気付いた。変に気持ちがふわふわしている。考えてみたらこの部屋に身内以外の人間を泊まらせたことはない。しかも素性が知れているとはいえ、近藤さんとはまだ二回しか会ったことがないのに。


入れ替わりで入った風呂から出て寝室に戻ると、もう総悟は寝てしまっていた。添い寝をする先生に、しい、と人差し指を立てられる。濡れて額に張り付いている前髪に、わけもなくどきりとする。

「狭くてすみません」
電気を消して、おっかなびっくり隣に敷いた布団に入る。総悟が壁のほうを向いて寝ているので、大の男がふたり肩を並べる寸法になる。なんとなく先生のほうが向けなくて、かといってそっぽを向いているのも不自然で、ポジションを直そうと何度かもぞもぞした後、思い切って寝返りを打つ。
こちらを向いた近藤さんと真正面から目があって、その距離の近さも相俟って身体が強張った。
うろたえたのが表情に出てしまっていたと思う。手がふっと伸びてきて、頬のあたりに指先が触れた。
「顔、ちょっとこけてる」
「え、」
「近しい方をなくして、小さい子をいきなり引き取ることになって。土方さんも思ってる以上にこたえてると思うよ。俺でよければ話聞くし、心療内科とかも紹介できるから。自分のケアも忘れないようにね」
どっしりした風貌からは想像できないぐらい柔らかな声音に、俺は思わず目を眇めた。
「土方さん、総悟のことですごくがんばってるよね。でも無理しないで、周りも頼ってね」
そういうと彼の手は額に伸びて、前髪をちょいちょい撫でてきた。
大の大人相手に、馬鹿にしているのかという反発はなぜかどこにもなかった。むしろ大きな手の感触が気持ちよくて、だんだん意識が擦れていく。

奇妙な違和感ならずっと感じていた。俺は酷く人見知りをするほうで、こんなことを他人に許すなんてぜんたいがおかしい。
おせっかいだとか、大きなお世話だとか、生活エリアに遠慮もなくずけずけ入ってくるずうずうしさだとか。そういう人間が何より苦手だったはずなのに。
それなのに彼に対しては、不思議と嫌悪感がない。それどころかむずむずするような、変な高揚がずっと俺を包んでいる。

俺、疲れてるのかな。彼の言うように、他人にすがりたい気持ちになっているんだろうか。