小児科の待合室ほど場違いな場所はない。 うるさいし足元を走り回るし、これだからしつけのなっていないガキは苦手だ。 隣に座る総悟は、小さなスリッパを足にひっかけ、ぶらぶらさせている。 「おい、遊ぶんならそれ脱げ」 低くたしなめるけれど総悟はこちらを向きもしない。どころかぽいぽいと前方へスリッパを投げた。片方が床に座り込んでいた子供に当たって、泣き声を出される。俺は慌てて子供と母親に謝り、スリッパを回収して下駄箱に戻しに行った。 戻ってきて、げんこのひとつでもくれてやろうとすると、 「おきたくん。おきたそうごくん」 診察室から若い女の声がした。総悟の背がぴくりと伸び、ぴょんと椅子から飛び降りる。走り出した総悟の後を慌てて追った。 診療室の扉の前では大男がしゃがんで、総悟の頭を撫でている。 「おお、総悟ひさしぶり!」 スポーツ刈りにした髪の毛をつんつん逆立てて、顎鬚を蓄えた男だった。白衣がきゅうくつそうな、ラグビーでもやっていそうな立派な体格。聴診器を首から下げていなかったら医師かどうか不安になるような容貌だ。 総悟は彼の襟を掴んで胸元に顔を埋めている。ミツバ以外の人間にこんなになついているのを初めて見た。 「どした、総悟?今日は甘えんぼさんだなぁ」 俺は彼の前まで来ると、ぺこりと一礼した。 「はじめまして、総悟の義理の兄です」 医師は俺を認めるとすっくと立ち上がって、どうも、と礼を返した。立ち上がると決して小さくない俺でも少し見上げるほどの身長だった。百八十はゆうに超えているだろう。 「あ、じゃミツバさんの旦那様?」 俺は首を振った。説明するのもややこしい。 「…の、弟です」 「今日はミツバさんは?」 後ろをうかがいながらそう問われて、ごくりと喉が鳴る。じゅうぶんに予想できた質問だ。低く答える。 「先月亡くなりました。事故で、それで俺が、こいつのこと引き取ることになって」 感情はついてこなかった。もともとあまり表情のない俺に代わって、かれの顔からさっと血の気が引く。深く眉間にしわを寄せ、感情を抑えきれないといった声を出した。 「……そうですか、」 それから総悟の髪をわしわしと撫でる。総悟はされるがままになって目を細めている。こいつの子供らしい表情を、久しぶりに見たと思う。 先生、診察、と看護師に声をかけられ、彼は室内に俺と総悟を招き入れた。 カルテを見ながら、一通り総悟のぜんそくの症状を聞く。ミツバが定期的に連れて行っていたのを思い出して今日は主治医の彼に挨拶がてら連れてきたのだけれど。そんなに重いものではないらしいと知って少しほっとした。 「季節の境めなんかによく出るから、気をつけて見ていてあげてくださいね。発作時には落ち着いて吸入器を」 「はい」 注入器はストックがたくさんあるし、俺も総悟も持ち歩いている。俺は不安を払い切れずに尋ねた。 「あの、俺、子供と暮らすの初めてで。何か気をつけることはありますか」 先生は、ずいと俺の胸元に顔を寄せて、すんと鼻を鳴らした。慌てて身体を引くと、食指を立てて眉を寄せる。 「まずそれ、煙草、やめましょう」 「へ」 「総悟のぜんそくの原因になりそうな要素は、取り除かないとだめです」 有無を言わさぬ雰囲気に、はあ、と頷く。 そういえば兄は煙草を吸わなかった。止められるかどうかはわからないが、とりあえず総悟の前でふかすのはよさなければならないようだ。 夕飯は駅ビルで済ませてマンションへと帰る。 鍵をあけると、先に総悟を中に入れてやった。薄闇の中、ととと、と軽い足音が廊下を駆けて行く。ほどなくリビングダイニングの戸が開き、擦りガラスの向こうで蛍光灯がともった。 廊下の壁面に積まれた段ボールからはこの部屋に不釣り合いな原色の子供用品が顔を覗かせている。俺は何の気はなしにひっくりかえっていた黄色い熊のぬいぐるみを直した。書庫にしていた部屋を整理して、総悟に譲ってやるつもりだけれど、なかなか片付いてくれない。総悟の荷物も半分以上梱包を解けずにいる。今はリビングの隣の和室にひとつ布団で寝ている。 風呂をつけてからリビングに入ると、総悟はさっさとこたつに入ってテレビに見入っていた。画面にはいつもの時代劇が映っている。ガキのくせに変な趣味をしているものだ。俺は懐の煙草を探って、はたと先生に言われたことを思い出す。 「お前、あの先生には懐いてるのな」 こたつに入りがてら言うが、総悟の反応はない。だしっぱなしだったみかんを手に取ると、ずいぶん遅れて総悟が答えた。 「近藤さんは好き。ねえちゃんとおなじぐらい」 そこまでか。とちょっとびっくりして、ひからびたみかんに指を入れた。この気難しい総悟をそこまで懐柔するなんて、あの先生はただものじゃなさそうだ。 「風呂沸いてるぞ」 次回予告の終わったころあいを見計らってたんすから着替えを出してやると、俺の手からぱっと取り上げて総悟は走って行ってしまった。 「ひとりで入れる」 振り向かない後ろ姿に、やれやれという気持ちで声をかける。 「耳の後ろちゃんと洗えよ」 がらりと脱衣所の引き戸が閉まって、俺はこたつに戻って一息を吐いた。 兄と、兄嫁である幼馴染のミツバがなくなったのは一か月と半月前だ。俺が総悟を預かっているからと申し出て、夫婦水入らずの旅行に送り出した矢先の出来事だった。遠因は点検のときに整備ミスがあったブレーキの故障で、不幸な偶然が重なったらしい。トラックとの正面衝突で、二人とも即死だった。 葬儀を終わらせ、保険やら自動車会社からの保障やら手続きを済ませ、兄夫婦の遺品を整理してアパートを引き払って、することだけは山のようにめまぐるしく、けれどひと段落ついた今、普段の生活に戻って行くことに戸惑いを感じている。悲しみというよりショックのほうが大きすぎたのかもしれない。 総悟は葬儀のとき以来、ぴたりと泣くのをやめて、生来以上に無表情になってしまった。 正直なところ、あいつ同様、俺も現実を受け止めかねている。 総ちゃんの咳が出たらここの病院に連れて行ってね。寝つきが悪い時はホットミルク。お気に入りのキャラクターはこれ。その他こまごましたことが書かれた可愛らしいノートをミツバに渡された時は、たった一週間なのに大げさな、と苦笑して受け取ったが、今となってはこれ以外によすががない。 総悟のことは生まれた時から知っている。ミツバといるときだけはいいこにしていて、ミツバがいなくなると急に憎まれ口を聞くのがかわいくないガキだった。口ばっかり達者で、年上を年上とも思わない態度に、つい同じレベルで喧嘩したりもした。面ざしだけは彼女によく似ている。 雑用を終えてようやく布団に入ると、もそもそと小さな体温が寄り添ってきた。無意識なのだろうが、こいつは起きているときには俺に甘えてくれない。スウェットの裾を握る小さな手を振りほどくのも躊躇われて、俺はそのまま眠りについた。 研究室もずいぶん行っていないので明日は顔を出さなくてはならない。こんなとき時間に都合がつく院生でよかったと思う。 |