(肆)もろとも


「トシー、こっちこっち」
こちらに向かってぶんぶんと手を振る。すまいるの電光看板の前に立つ、赤ら顔の近藤さんはがたいも声もでかいので目立つ。

おれが駆け寄るのと同時に、近藤さんの身体が前のめりになる。近藤さんを文字通り蹴りだしたお妙は、さっさとおたいこを翻して店に戻っていった。
黒服がおれに会釈だけよこして、観音開きの扉が閉まる。

つんのめった身体を支えてやれば、
「トシだぁ」
ひっく、としゃくりあげた弾みで顔が至近に迫る。おれはついと顔を逸らした。またこんなに飲んで。
「今日はどんだけぼられたんだ」
苦々しい問いは、ひみつぅ、と可愛くない声色でかわされた。

まったく、おれを何だと思ってやがる。あんたのママでも保護者でもないんだぜ。聞こえないように口の中だけでぼやく。
それでも、酔っ払って呼ぶのが必ずおれで、携帯電話の短縮の最初がおれだということに、おれは変な優越を覚えている。ろくでもない。と思うけれど。

腕を肩にまわし、そろそろ歩き出せば近藤さんはさも楽しそうに笑う。
「へへへ」
酒の匂いに鼻が慣れると、その下から今日も安っぽい香水がふんわり香る。これはあの女のにおいだ。石鹸みたいな甘ったるい香り、ああ胸がむかむかして吐き気がする。
「ああっ、今日も、女神のような笑顔でした」
芝居がかったしぐさで、お妙さぁぁん、と宙に手をかく。おれはあしらうのも面倒で、近藤さんと歩幅をあわせることだけに腐心する。
「俺はお妙さんと結婚するぞォ」
雄叫びが身体を通って響く。このひとの声であの女の名前を聞くのが忌々しい。あんなに入れ込んで、入れあげて。あれだけすげなく扱っているのに、おれの欲しい全ての甘い言葉をあの女は享受して憚りもしない。
「できるものならな」
無表情を装って言い捨てるけれど、
「それはお前の願望だろ、」
そう云ってにやりと笑いかける、ああなんて顔だ。



繁華街も外れに来ると、街灯の間隔がだんだん広くなる。道は見通す限りおれたち以外に人影はない。
足取りはあまり派手にぐらつかなくなったけれど、その代わり眠くなったのかこちらへ預けられる体重が増す。
どしりと肩の重み、近藤さんの汗の匂い。そのあたたかさに身体は甘露を覚え、反対に頭の中は冷え冷えとしていく。

ふんふんと音程の外れた、近藤さんの鼻歌が途切れた折、
「おれが、」
よく考えないうちに、ふと口が滑っていた。

「おれがあの女を殺したら、どうする」
ごくりと喉仏が上下するのを自覚する。言ってしまった後で、そのどうしようもなさにうんざりする。彼は怒り出すだろうか、ひとかけらの期待を込めて、ただ斜め前のアスファルトを睨む。間もなく酒臭い息とともに、近藤さんはなんでもなさそうな声を吐いた。
「また新しい女を好きになるさ」
鼻歌を歌っているのと変わらなかった。


責めても。憎んでも。貰えないんだ、おれは。

頭の中がぶつんと真っ白になる。このひとがおれの、おれのこのひりつくような恋心に、まともに向き合ってくれることなんかない。それがひどくおれを打ちのめした。


お構いなしに、優しげな声が続く。宥めるような、聞き分けのない子供に言い含めるような、そんな調子だった。
「いいかトシ、お前は、お前以外のものにはなれないんだぜ」


このひとの言葉はおれを隅々まで絶望で埋め尽くす。
おれはもう立っていられなくて、膝が笑うのに任せてその場に座り込んだ。近藤さんは少しバランスを崩したらしく、うわ、と云ったけれど、つられて倒れてはこなかった。
見下ろされている。どんな顔で彼がおれを見下ろしているのか、怖くて知りたくなかった。眉に掌の底を押し付ける。こめかみで心臓がうるさい。

潤んでほとんど真っ暗な視界の隅で、近藤さんの足が一歩前に出た。行ってしまう、置いていかれる、という恐怖が瞬時に全身を捕らえ、反射的に手が近藤さんの羽織の裾を掴んだ。
見上げた近藤さんは、涙で歪んだ視界で、微笑んでいるように見えた。
すかすかの、脱け殻のようになった頭で、それでもかれを失うことがこわい。おれにはすがり付いて情けを請うしかない、おれは、なんて愚かなんだろう。
なにやら叫び出したくて口を、大きく開く。舌が震えた。一拍遅れて、

「気が、違いそうだ」
喘ぐような声が喉から押し出された。
否、おれはとっくに気が違っているのかもしれない。

おれと近藤さんのまなざしが絡み合う。近藤さんの細められた目におれの思考はますますぐちゃぐちゃにされる。
近藤さんはゆっくりしゃがんで、おれと同じ高さまで視線を落とした。
「なあトシ」
ひとつずつ、耳元で。吹き込むように、並べる。
「気が違い、足が萎え、聾しい、盲しい、唖しても、

それでもお前は俺から離れないだろう?」

問われておれはがくりと頷いた。このひとと出会ってからおれの身体がおれの思い通りになったことなんか一度もない。


ああああ、と泣き出す前の子供のような、ひどい音が喉でひきつる。近藤さんの唇に声ごとふさがれて、それでおれにはもう成す術もない。



胸が張り裂けてしまう。

この気持ちは、おれが死んだところでなくならない。
百年後、千年後に、昇華しきれず怨念のようにさまようこの恋情を想像して、なんてむごいのだろう、と思った。思って、近藤さんの袷をきりと握った。