(弐)ひとしお


下駄箱前に屈んだところで、かまちを上る髪の色にぎくりとする。身体を微かに固くしたのを気取られたらしく、総悟はこちらを振り向いた。
彼女の葬式以来、まともに顔を合わせていない。言葉も見つからずに、少々ぎこちなく視線をやれば、総悟はふんと鼻を鳴らした。生意気なしぐさにほっとする。
葬式では真っ白だった頬にも、少しは赤味が戻っている。

「腑抜けた面してんじゃねえよ」
毒づくような物言いにも腹は立たない。無言で瞬けば、総悟は口元をゆがめる。丸みを帯びていた輪郭が少しこけたように見える。
「痩せたか」
「うるせえ」
図星だったのか、語調がいっそう尖った。唇からのぞく歯列の白にはっとする。そうだ、こいつが俺に気遣われて愉快な筈もない。
「あンたと傷舐めあうなんざごめんだぜ」
くるりと背中を見せると大股で歩き出す。おれは目を眇めて後姿を見送った。尤もだと思うし、もとよりそんなつもりは毛頭ない。
あいつに対しても、義理を欠いたのはおれなのだ。


唯一おれの人生で、正しく柔らかな純情だった。おれが突き放したことで彼女は幸せになれるはずだった。ならなければいけない女だった。それなのにあんな結果に終わらせてしまって、いよいよおれは無力だと思った。

剣だけをずっと恃んで来たのに、おれの力はそこにしかなかったのに。力づくでは現実を、何も押し留めることができなかった。
これでもう残っていない。彼以外に、おれにはなにも残らない。
恨めしいわけではない、むしろそこまで痩せ細った自分の生におれはどこか安堵すら感じている。




隣室の明かりがついている。誘蛾灯に誘われる虫のように、ふらふらと足はそちらへ向かった。
ノックも出来ずに暫し躊躇えば、部屋の中から誰何された。続いてすぐに、
「トシだろ」
笑ったように言われては抗えず、手は戸を引いていた。

近藤さんはこちらへ向いて居直り、書類を書き物机に放る。形の良い額、凛々しい眉がおれを認めて少し下がる。
彼はここのところずっと総悟につききりで、毎晩寝所を空にしていた。
近藤さんは総悟に優しい。他の隊士へも等しく真摯で誠実だ。ひとりひとりを思いやって心を砕く。おれ以外の人間に接するこのひとを見ていると、二人きりのときに底冷えのするような目をする彼と同じ人間なのかわからなくなってくることがある。作っているようでもない、陽気で気安く情も厚い彼のほかに、もうひとりいるようだとぞくりとする。


おいで、と呼ばれて傍に膝を付く。腕をとられて向きをひっくりかえされ、素直に背を預けた。彼の高い体温が布越しにおれの肌をじわりとあたためる。
「毎晩俺がいなくて、寂しかったか」
耳元で問われて頷けば、トシはかわいいな、と胸板が震える。

襟足をくすぐられて背筋を小さくしならせる。かれは優しくおれを撫でる。これが全部茶番だとおれは知っている。
総悟に与えるような心の底から慈しむような声ではない。これは人格のないものへ対する寵愛だ。支配者の絶対的な優越から来る、掌で弄ぶような残酷。
それでもこの、優しげな響きが贋物だったとしても、甘い声音と体温に感情は易々と降伏する。痺れた理性なぞ何の止金にもならない。
背骨のひとつひとつをなぞる、愛撫にも似た手の動きにうっとりと目を伏せる。腰の奥がじわりと甘く疼き出す。尾てい骨のところでふと離れた指を不服に思って瞼を上げれば、同じ親指が俺の頬を掠めた。耳元に息がかかる。
「ちょっと隈ができてるな」
あまり寝ていないんだろう、お前も。言われて、そういえばそうかもしれないとぼんやり思う。
「ついててやるから、寝ろ」
おれは首を振った。
「いやだ」
「なんで」
「したい、」
語尾はねだるように少し篭った。近藤さんの声が、はは、と笑う。


布団の上に倒されて視界がぐるりと反転する。見慣れた天井の木目。
まもなく近藤さんの唇が下りて来て、上唇からぬたりと粘膜に覆われる。近藤さんの唾液は甘い。まるで蜜のようだと思う。注がれるそれを俺は必死ですする。思考にはどんどん霞が掛かる。麻薬にも似ている。
胸元に這う掌は温かく、ほうと無意識にため息が漏れる。ため息まで口付けに絡め取られた。
たぶん今日はとびきり優しくおれを抱くのだ。哀しみではない、確かにおれの胸を塞いでいるのは期待だった。



人の脳味噌には耐え切れる限界というのがあって、それを超えたら破裂してしまうのじゃないのだろうか。事実焼き切れずによく持っているものだと思う。

一皮剥けばおれの内側一面に焦げ付いた、このひとへの情愛、執着、独占欲。
体の関係をもたなければそれも、友情だとか信頼だとか、そういう無害な感情に埋まって風化したのかもしれないけれど。肉の情を挟んでしまってはあとは増幅するばかりで、あのころおれに巣食い始めた般若の貌は、もう判別できないぐらいに醜く膨れ上がってしまった。
彼に強く抱かれるたび、体の中まで蹂躙されるたびに、細胞の一つ一つまでが歓喜の悲鳴を上げる。かれの一部を身体の奥に迎えて初めておれは充足を知る。
そしてひとたび身を離せば延々と渇きを持て余すのだ。

もう十余年、まだ十余年。いつまでおれは焦がれればいいのだろう。ここは地獄だ。業火に焼かれ続ける無間の地獄。