(壱)いくとせ


夢の中で彼女は、悲しそうな顔をこちらへ向けている。責めるでもなく哀れむでもなく、ただ眉を寄せている。

目が覚めてから苦笑した。
あれから十年が経つ。もう十年、とするべきか、まだ十年、とするべきか。



仏間で手を合わせる総悟を見た。殉職した隊士を弔う仏壇の横に、小さな写真と位牌が並んでいる。
俺に気づいた総悟は面を上げて、ふと眉を下げた。場所を空けられて、俺も横に並んで線香を上げる。
「早いもんだな」
呟けば総悟は黙って相槌を打つ。四十九日を先日終えた。
彼女を亡くしてから睡眠がまともに取れなくなった総悟に、俺は毎晩添い寝をしてやった。手を握ってやると安心するのか眠れるらしい。彼女と別れたばかりの頃の総悟を思い出して痛ましい気持ちになる。あのころも今も、総悟は俺にとってまっすぐな、ただそこにいることが正しい存在で、俺はこの少年と繕い繕われこれからも生きていくのだと、思えばなんだか胸が詰まる。


彼女は写真立ての中からこちらへ笑いかけている。夢の中とは違う、もっと屈託のない表情だ。果たして夢の中で見たような貌を一度でも俺に向けたことがあっただろうか。

トシが、俺以外に執着を見せた唯一の人間。彼女もついに名実ともに過去の人になってしまった。
彼女に俺は罪悪感を覚えてしかるべきなのかもしれない。弟も恋人も取り上げ、それを疑問にも思わない、恨まれたって仕方がないと思う。
けれど不思議と、彼女の夢を見ても何も感情が動かないのだ。

「さ、朝飯食いに行こう」
軽く肩を叩くと総悟はやっと俺のほうを向き、軽い足音がとんとんと後をついてきた。




夕餉前、屯所に戻った俺は道場に顔を出した。ちょうど稽古が終わったところらしく、入り口はがやがやと騒がしかった。隊士たちに調子を尋ねてはねぎらう。
それから今日の指導役だった原田と暫し立ち話をする。トシは、と聞けば水を浴びると云って辞したという。
「剣さばきは冴えてるよ。無心ていうのかね。声かけれる雰囲気じゃねえな、あれは」
腕を組む原田に、俺は神妙な顔をして頷いた。
「あいつなりに今回のことを持て余しているんだろう。こんなことを頼むのもどうかと思うが、暫く気をつけて見ていてやってくれないか」
原田は無言で首肯した。よろしくな、と念を押してきびすを返す。


井戸のほうから水音を聞きつけ、道場裏へと足を向ける。
もう十月だっていうのに、無茶なやつだ。
俺を認めたトシはこちらを仰ぎ、もう一杯桶で水を被った。俺は声を張り上げた。
「風邪引くぞ」
「そんなにやわじゃねえ」
平坦な声音に、また胸がむかむかしてきた。

総悟とは対照的に、トシは一切感情を表に出すことはない。天海屋の一件以来、こうして黙々と稽古に励み竹刀を振っている。それも俺の神経をぞわりと撫でる。俺はといえば、トシに対してわけもわからない憤りがこみ上げてそれを自分の中で御すのに腐心している。

なにも不思議なことではない。
いかにもこいつのしそうなことだ。頭に血が上ると何をしているか自分でもわからず、そして彼女に関して言えば随分と格好をつけたがった。武州に置いてきたことで彼女を『不幸にしないで済んだ』と思っていたのだから、それが踏みにじられるとあっては逆上するのも無理はない。

それでも。理性とは遠いところで衝動が吼える。
俺以外の人間のためにこいつが血の一滴こぼすのも、指一本動かすのも、
こんなに不愉快なことだと知った。


ひたりと足元で、水を吸った袴が滴る。
俺はすっと手を伸ばし、顎の線を捕らえた。
俺の体温に冷えた肌がぴくりと怯んだ。けれどそれもすぐに温んで馴染む。
「なんだよ」
「なんでもねえ」
「なんでもねえなら離せよ」
そうは言うものの声音はため息を吐くようで、本心ではないことを伝えている。案の定うっすらと目が眇められた。気持ち良いときの表情。

耳元に唇を寄せて囁く。
「お前は、」
「ん」
しおらしさを装って声を出した。
「お前は、逝くなよ」
俺の手を捉えた、濡れた右手に力が篭る。トシは俯いたまま、こくりと頷いた。

酷くしたいときは反対に優しくしてやることにしている。そうしたほうがいくらもこいつを抉れることを、俺はよく知っている。




死期を悟った頃に書いたのだろう、
彼女から、俺宛に一箋の遺書が残っていた。
今までありがとう、総悟をよろしく、という内容、そして最後に迷ったように行をあけて、
あのひとを幸せにしてあげてください、とあった。あいつと彼女の気持ちがここで円を描いたようで、そう思えば身体が芯から冷えるような気持ちになった。
手紙は握り締めるとすぐに燃やした。

憐れみなどはとうに磨り減っている。