(参)さかしま


風呂は家人の最後に入る。気にしなくていいと近藤さんは云うが、このほうが気兼ねなく長風呂ができるので遠慮しているわけではない。

曇った洗面台の鏡に映る自分を見やる。
長い髪が張り付く筋肉の乗った腕。小さな疵がいくつも上気した肌に走る。
湯浴みをするたび思う、この体がこんなに筋張っていなくて、もっと柔らかく滑らかであればよかったのかと。女になりたいだなんて考えたことが無い、そうではなく、女の肉体であればあのひともおれを抱きたがるのだろうかと想像する。想像して自嘲する。
女になったところであのひとに愛される保障なんかどこにもないのに。

喧嘩となれば背中を預けてもらえる。実際道場の門下生としておれの腕は一目置いてもらっていると思う。
おれを悪友と彼は呼ぶ。一番の、と惜しげもなく云う。仲間の多い彼にとってそれは望みうる限りの称号だ。
そばに居られればいい、そういうふうに思い切れればいい。彼の為にも、なによりおれのためにも、それが望ましいことなんだ。
それなのにひとたびあのひとと対峙すれば、匂いを間近で嗅げば、理性は易々とこの手をすり抜けていってしまう。この体の操縦桿を握っているのはおれではない、彼だ。


身体を拭くのもおざなりに部屋に戻った。頭を冷やしたかったのもある。

布団を敷くのも億劫で、ぺたんこになった座布団だけ引っ張って、毛羽立った畳の上に足を伸ばす。
手元の明かりをつければ、部屋が半分だけぼうと照らされる。障子の向こうには竹が生い茂っている。夜などはざわざわと揺れるのが気味が悪い。
田舎道場だが敷地は広い。離れにひとりになるともう声などは相当張り上げなければ届かない。

「トシ」
廊下の方から呼ばれてぎくりとした。入るぞ、と言い捨て、返事を待たずに襖が軋む。
何かと用事を作っては、酒やらつまみやらを持って部屋に入ってきたがる近藤さんを、その都度おれは追い返していた。一人が好きだとか落ち着かないなどと言えば、縄張りだなんて猫みたいだと笑って、それ以上食い下がってはこなかった。
こんなに強引に踏み込まれたことはついぞ無い。寝巻き姿の近藤さんは固まった表情のおれに構わず近づいてきて、すぐそばにどんと膝をついた。

ああ、こんなにびしょぬれで、そう云って肩にかけた手ぬぐいを無造作に掴む。
「冷えちまうぞ」
近藤さんの手はわしわしと頭皮を撫でる。木綿越しの指が髪を梳く。掌は大きく、温かく、頬に血が上っていくのがわかる。同時に背筋を鳥肌が走って、熱いのか冷たいのか感覚がショートしてしまったようで、気が遠くなりそうだ。
よせと言おうとして開いた口からは、は、と吐息のようなものしか漏れなかった。苦しい。
あらかた水気がなくなると、近藤さんは思い出したように面を上げた。
「そうだ」
袖の下をごそごそと探って、ひょいと取り出したのは煙管だった。
「これな、お鶴ちゃんがお前にってさ」
お鶴、っていうのはあのあばずれか。おれはむっとして辞した。
「いらねえ」
「そう云うなよ、お前に気に入られたくて向こうも必死なんだぞ。無碍にしたらかわいそうだろ」
宥めるような、子供に言い聞かせるような語調に血が上る。
「ほんとにあんたは、人の、ッ、」
最後の理性に押し留められ、言いかけた言葉を飲み込む。宙に浮いてしまった沈黙を持て余し口元をゆがめていると、近藤さんはぽつりと、なんでもないことのように云った。
「人の気も知らないで、か」
おれは目を剥いた。近藤さんは穏やかに笑っていた。ふざけているようでも、ばかにしたようでもない。瞳は底光りをしている。

ぞくりと、悪寒のようなものが走る。これは恐怖だ。
肩を掴まれ、ぎしと上半身が軋む。
病人のようにぶるぶると震える指先は大きな手に捕らわれた。そっと口付けて、その位置で近藤さんの唇が動く。
ねえトシは。
「俺に抱いて欲しいの?」

おれは首をすくめた。それでもう十分な答えになってしまったようだった。
視線を合わせたまま縮まる距離に、目を開けていられなくてぎゅうと瞑った。
まもなく温かな感触が唇に触れる。ぬめった感触が口腔をぬたりと覆っていく。ああこれが近藤さんの舌だとわかると途端に、神経が鷲づかみにされたみたいな愉楽がおれを駆け抜けた。
ちかちかする思考で、これからこの身体が彼に征服されるのだ、と、ようやく自覚したら、目尻からぼろぼろととめどなく涙が溢れた。
幸福だかやりきれなさだか、なにか得体の知れないもので喉もとまで一杯に満たされて、溺れてしまいそうだと思う。