「はよーッス」
やる気無く挨拶をして框に上がると、
水音に続き、建て付けの悪い戸がガタガタいう音がした。
トイレのほうから薄桃色の頭がふわふわやってくる。

「おはよう、神楽ちゃん」

「…ハヨ」
寝巻きの袖で目をこすりながら応える、彼女はまだ半分夢の中のようだ。
今ご飯作るから。そう云って台所に足を向けると、視界の端で背筋がピンとはねた。まったく現金なんだから。


ちらと和室の方に目をやったけれど人の気配はない。
あれから銀さんとは顔をあわせていない。どうやら僕のことを徹底的に避ける作戦らしい。
お金だってそうそう続くわけがないんだから、長谷川さんのところに転がり込んでいるか、あんまり考えたくないけど公園で寝てるか、せいぜいそんなとこだと思う。
ぱんつとかどうしてるんだろう、と思ったけれど、心配するのだってばかばかしい。


おひつからご飯をよそって手渡すと、勢いよくかっこむ。
ほどなく突き出される空の茶碗。二杯目を惰性で盛って返す。
わんこそばを思い出していたらばりばりと鳴る漬物の音の下から、
「昨日銀ちゃん帰ってきたヨ」
とくぐもった声が届いた。
「え」

「夜中帰ってきてレディーの部屋勝手に開けた。私寝たフリしてたらそのまま閉じたヨ」
ぱんつでも取りにきたんじゃネーノ、もちゃもちゃ咀嚼しながら云われて、僕はぼんやり頷いた。



長谷川さんと喋っていて、わかったことがある。
銀さんはきっと、自分を変えたり、変わったりするのが厭なんだと思う。
だからあんなに大人気ないやり方でなりふり構わず、僕を突き放す。

僕の気持ちに応えるにしても拒むにしても、自分の本音を引っ張り出してそれと向き合わなきゃならないから。その一歩を踏み出すのがどれだけ負担かということも、ぼんやりとだけれど理解した。

長谷川さんのほうが居心地がいいのも当たり前だ。長谷川さんは銀さんに何にも強いない。
僕の世界にはずかずか入ってきたくせに、自分の世界には踏み込まれたくないだなんてずるいと思う。けど。大人になるに従って、そういうことがどんどん億劫になるものなのかもしれない。



ようやく人心地ついたのか、
「喧嘩したアルか」
げふ、とげっぷをして、神楽ちゃんが茶碗から顔を上げた。

「喧嘩っていうか、まあ」
言いよどんだように口ごもれば、ことさら興味もないのか、今度は焼鮭の小骨と格闘を始める。


あのひとを追い詰めることは僕の本意じゃない。
追いつめて、挙げ句に僕らの作り上げたあえかな絆までなくなってしまうなんて、そんなのは厭だ。

僕の気持ちに応えてくれなくたっていい。
ただ一度でいい、僕と向き合ってくれたなら、茶化さず目を見て話してくれたなら、それ以上なんて望まないのに。
それすら銀さんに望めないんだろうか?


ため息を吐いて仰ぐと、こちらをじっと見つめる視線に気づいた。
「あ、ごめん、おかわり?」
僕の手に茶碗を載せ、神楽ちゃんは首を傾げた。
「銀ちゃんどこ行ったか知ってるアルか」

「まあ、見当ならつくけど」
いつも銀さんにべったりの彼女が、寂しくないわけないだろう。
巻き込んでしまったようで悪いな。喉まで出そうになったごめんを引っ込める。

「神楽ちゃん、迎えに行ってくれるかな」
それでもぐずるようならほとぼりが冷めるまで僕が休んでもいい。あのひとの家はここなのに帰ってこられないというのも酷い話だろう。
情けない笑顔を向けると、神楽ちゃんは首を竦めた。
「私が行っても帰ってこないヨ」

「え」
なぜ。聞き返そうとしたら呆れたような声が続く。
「銀ちゃんスネてるだけ。ケンカしたんなら」
頬についたご飯粒を拭った指で、僕をさす。
「オマエに迎えに来て欲しいんだヨ」
ケンカじゃないんだけど。妙に説得力があって、思わず首を縦に振ってしまった。


「…そうかもね」
僕はちょっと考えて、抱えていたおひつを机に置いて、立ち上がった。歩きながら割烹着を脱いでソファに放る。
そんならお言葉に甘えて、試されているんだ、ということにしよう。

「行ってくるよ」
神楽ちゃんがおひつを抱えるのを尻目に、僕は居間の扉を勢いよく開けた。


銀さんに会ったら、云ってやろう。
こんなことくらいじゃあんたをキライになってやりませんよって。
そうしたら銀さんだって、顔をちょっと歪めて、降参するかも知れない。
僕は僕らの仲を壊してしまいたかったわけじゃない。
いつか、この感情が僕らの関係に熔けて、ひとつになってしまう日が来たって、
僕はあんたのそばを離れる気なんかないんだから。






Back/Next