長谷川さんの下宿を出て、錆で赤茶けた階段を下りる。
ブーツをひっかけただけで来たからゴム底がかぽかぽ鳴った。でも屈んでジッパーを上げ直す気にもなれない。
あくびをしながら背を伸ばす。酒が抜けきっていないのか頭の付け根がぎしりと軋んだ。

遅い朝の匂い。日向の香りとソバつゆと排気ガスとドブ川と誰かのゲロとその他諸々の匂いが節操なく混じり合う。目隠しされてたってわかる、まぎれもなくこの町の匂いだ。

オレは拳で鼻をぐしぐし押した。
血の匂いをかぎ分けるために効くようになった器官だ。
こいつがなければオレは生き残れなかったに違いない。
正確に言うと「血の匂い」じゃなく、「血の匂いに慣れた」人間だけをかぎ分ける。
その匂いでオレの身体は竦む。そして頭は冴え冴えとする。
戦場で生き残るのは強い奴じゃない、臆病な奴だけだ。

長谷川さんからは煙草とほんのり汗の匂いがした。オレの嫌いなあの匂いはしなかった。
だから行為に没頭できた。考えてみたら人とまともに肌を重ねるのなんか初めてかもしれない。そうだ、他人を「抱いた」のはきっとこれが初めてだ。ガキのころからもともとアッチの欲求は強い方じゃなかったし、この鼻のお陰で女は抱けないし、で、いつか有耶無耶になっていた。
今更すぎてこれといって感慨もないけれど、でも、まあ、なんだかなぁ。



ああ、もう着いてしまった。まだあいつと顔を合わせるだけの心の余裕ができてないのに。
オレは万事屋の看板を見上げて歯の裏を舐めた。


戸を引くとまず最初に水音が聞こえた。洗い物をしているらしかった。
「おかえんなさい」

手も水道も止めないまま、台所から声が飛んできた。
オレは無言で靴を脱いでたたきに上がった。流しのほうへ顔を出して、小声でただいま、と云っても、新八は顔も上げずに皿を洗っていた。
昨日はどこに泊まったんだとか、いくら使ったんだとか、そういう説教もなかった。
女房面すんなといくら口をすっぱくしても、怒鳴り声か嫌味に迎えられるのがいつもだから。オレは拍子抜けして、でも何か物足りないような気分になって流し場の向かいの壁に背を凭れた。

「神楽は」
「和室で昼寝してます」

怒ってるのか呆れてるのかわからない、無感動な声が云った。
メガネがあるのと俯いてるので、表情が読めない。
こいつもいい加減に疲れているのかも知れない。このどん詰まりみたいな状況に。
だからきっと、早いとこオレが引導を渡してやらなきゃならないんだ。

「おれ、付き合いはじめたから」
オレは努めてなんでもないことみたいに云った。
「はぁ」
対する新八の声も素っ気ない。
「相手は誰ですか?結野アナ?蕎麦屋のおかみ?」
さも興味なさそうに、女の名前をつらつら挙げる。
「ちげーよ、女じゃねーよ」

見せつけるみたいに香水や白粉の匂いを付けて帰ってきたりもしたけれど、こいつはぜんぜん動じなかった。あんたのオンナになりたい訳じゃないです、とかよくわからないことを云った。
長谷川さんと寝たのは深い考えがあった訳じゃなかったけれど。女相手にヤキモチを妬こうとしないこいつだから、これはいい口実になると思った。
それともオレは最初から無意識に計算してたんだろうか。

「長谷川さん」
ガチャガチャという食器の音が止まった。
「嘘」
「ほんと」
続いて蛇口のしまる音。新八はぎこちなく身体をこちらに向けた。
流石に顔は強張っていた。睨むようにオレと目を合わせてくる。

オレはその視線を振り切るようにして言葉を続けた。
「オマエと違ってオトナだし。オレのワガママも聞いてくれるしさ」
「だいいち一緒にいてムリがない。これに尽きるよ」
舌からは面白いほど軽快にせりふが出てきた。云っているうちに自分でももっともらしい気分になってくる。それでもまだ新八の視線がまとわりつくようだから、オレは口を大袈裟に歪めて吐き出した。
「とにかく、俺たち付き合ってるの。お前は逆立ちしたってムリなの。わかった」

新八はわかったとは云わないでくちびるを噛んだ。その仕草が突きはなされた子供みたいで、
俺は見ていられなくて焦点だけあさってのほうに合わせた。視界の隅でぼやけた新八はまだオレの方を真っ直ぐ見ていた。


こうやって誤魔化したり茶化したり逃げたりすることが、心苦しくないわけじゃない。
でもオレがこいつと真っ正面から向きあうことで、なにかが始まるよりましだと思ったんだ。
オレとこいつで何が始まるのかわかんないけど、なにかが始まってしまうのだとしたら。

できることなら何にも触れないで生きていきたい。
取り返しがつかないということが、なによりオレには怖ろしい。




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