「うそ、」 ガラス玉みたいに見開かれたカイルの瞳が、呆然として揺れる。 「嘘じゃない」 俺は低く、短く答えた。さもなくば息が詰まってしまいそうだった。 「だ、だって、スタンフォードから合格通知が来たって」 俺は首を振った。よくそんな嘘に騙されたものだと思う。 俺だって足掻いたさ。アメフトを引退してからは柄にもなく自習室に通い詰めたけれど、お前とは頭の出来が違うんだってことばっかり思い知らされたし、確固とした目的もないまま茫洋とする勉強は俺にとって苦痛でしかなかった。 結局SATは酷い出来で、願書を出すことすら叶わなかったし、それ以前に合格したとしたって、ろくな奨学金ももらえないって言うのにうちの家族が学費を捻出できるわけもなかったんだ。 ダイナーには悪気のない、ありふれたオールデイズが流れている。違和感に腹がしくしくと痛む。 「明日の朝、こっちを発つ」 部のOBの人の紹介で、デンバーに働き口を見つけた。カイルとの思い出の多すぎるこの町にはもう住んでいられそうもないから。 がたん、と椅子が鳴った。中腰になったカイルはテーブルに手を突いて俺のほうへと身を乗り出す。 「待ってよ、スタン」 カイルは丘にあがった魚みたいにぱくぱくと口を開き、絞り出したような声で言った。 「遠距離だっていいよ、今はスカイプだってなんだってある」 「俺が嫌だ」 自分の声が割れるのが忌々しい。 「お前に毎日触れられないのなんか我慢できない、」 「僕だって、スタン、でも、」 「最初は」 カイルの話を遮り、俺はため息を吐くように言った。 「お前の寮に転がりこんで、路上でホットドックでも売ろうかとも思ったけどな」 それは半分も本気だった。俺にはカイルより大事な将来なんてなかったし、ひとまずそれ以外のことを後回しにするのもやぶさかじゃなかった。けれどそんなことを打ち明けたとして、カイルがよしとするはずもない。それに。 「頼まれたんだよ、」 カイルはここに来て、やっと思い至ったように口元を押さえた。 「……ママが?」 俺は返事をしなかったけれど、カイルには十分伝わってしまったようだ。 スタンリー、お願い。シーラはそう言った。あの子の未来を奪わないでちょうだい。あの子に、あの子によく似た子供を抱かせてちょうだい。あの子が大事なら。お願い。 体の前で祈るようにきつく組まれた手は白くなっていて、声は弱弱しく歪んでいて、いつもの勢いなんかどこにもなかった。そこにはただ、息子を思って泣く力ない母親がいるだけだったから、俺には返事が出来なかった。 反論したいことならいくらだってあった。カイルの幸せはカイルにしかわからないと。これは後で後悔するような関係じゃないと。 でもそんなことはいくら訴えても詮無いことだということも、俺にはわかっていた。 どんなにお互いの考えを擦り合わせたって、俺といるかぎりシーラにとってカイルは『不幸せ』なんだ。彼女の四十何年間で培われた価値観をひっくり返す魔法なんかどこにもない。 「これしかないんだ」 カイルは首を振った。目尻に盛り上がった涙が張力を失って、ぽろぽろと頬を伝う。 シーラはカイルを大事に思っているし、どれだけ疎ましがったとしても、カイルもまたシーラを愛している。 できることなら。できることなら、全部捨てて二人で誰も知らないところに逃げられたら、どんなにかいいだろう。 俺と何かを二択で選ばせるなんて、あまりに残酷だ。俺は、こいつから俺以外の大事なものを取り上げたいのじゃない。家族も、未来も、ありふれた幸せも。 俺は喉を鳴らして、カイルと自分に、とどめをさした。 「だから、さよならだ」 発音しきると自分の胸のなかの何かが、ピンで標本箱に刺された虫のように、ゆっくり動かなくなっていくのを感じた。 俺たちの関係はゼロか百かで中間なんかない。 今更友達にも戻れない。お前には幸せになってほしいと思うけれど、俺以外の人間と幸せになるお前を直視するなんてできそうにもないから。俺たちは深くまで触れ合いすぎてもうとっくに、引き返したり、なかったことにできるような関係じゃないんだ。 「やだ、絶対、やだ」 テーブルに伏せたカイルの肩を撫でたい衝動を、今すぐ抱きしめたい衝動を、俺はやっとのことで噛み殺す。テーブルの上で震える手を拳に握る。 「やだよ、やだ、スタン、」 カイルの啜り泣きがひしゃげていくのを、もうこれ以上聞いていられそうもない。俺は静かに席を立った。 空は低く、油絵具をごちゃまぜにしたみたいなグレイをしている。通行人と肩を何度もぶつけながら、俺はあてどもなく歩いた。雑踏は遠く、何もかもが余所余所しかった。 あんなふうに泣かせたいのじゃなかったのに。俺はお前に笑って欲しかったのに。 あるいは、そもそも。 俺たちは愛し合うべきじゃなかったのかもしれない。俺たちの関係にそんなどうしようもないものを持ち込まずに、小さなころのように友情だけを育んでいれば、カイルは今も笑ってくれていたのじゃないか。 俺は起こりえなかった未来を想像して唇を噛んだ。浮き上がってくる血の味を無心に舌で舐る。 どこをどう歩いてきたのか、気づけば見慣れない道にいた。辺りは薄暗く、振り仰げば暗雲が立ち込めている。生暖かい風が頬を覆う。アスファルトの下から雨の匂いを嗅ぎ分けたのと、肌を打つ水滴を感じたのは同時だった。 雨脚は見る見るうちに強まり、視界を塞いでいく。フードのついたスゥェットを着ていたことにぼんやり思い至ったけれど、かぶる気にもなれない。雨宿りをするつもりで木立の茂るほうへと小走りで向かうと、坂道の先、見覚えのある門構えに俺は首をひねった。 「スタン?」 鉄柵が軋んだ音を立てて開く。 「おお、やっぱりだ」 姿を現したのはメフィスト博士だった。ここにきてやっと俺は、ここが彼の研究所だということを思い出した。 「大きくなったものだな」 博士は最後に見たときとあまり変わらない様子で、俺の全身を見渡すと顔中の皺を寄せて笑った。 「入っていきなさい。びしょ濡れじゃないか」 辞退する気力もなく、俺は彼の勧めに応じて門をくぐった。 通されたのは天井の高い部屋だった。研究室と思しく、さまざまな、用途が想像もできないような機械と工具がひしめきあっている。ケージの中の奇妙な動物も 健在だった。本棚からはみ出す本はタイトルだけでめまいがするようなものばかりだったけれど、生物、物理、化学と多岐にわたっている。 博士は俺にくたびれたソファを勧めるといったんドアを出て行って、ほどなくしてタオルとココアを持って戻ってきた。子供じみたチョイスに苦笑しながらも、俺は礼を言って受け取った。 ひとくちココアをすする。わざとらしい甘ったるさが舌の奥でほろ苦さに変わる。タオルで髪を乾かしながら仰げば、部屋の最奥に天井まで届くような大きな装置があった。 真ん中に人ひとりが入れるぐらいの大きさのカプセルがあり、その上下からのびた無数の管が両脇の柱につながっている。柱の表面は無数のパネルとスクリーンでおおわれていた。 向かいの研究机に座った博士と目が合ったので、俺はその装置を指さして尋ねた。 「……これは?」 「タイムマシンだ」 俺は驚いて聞き返した。 「タイムマシン?」 「さよう。実験にも成功している。理論上は最大十年前にまで遡れる」 「すごい」 思わず唸ると、しかし、と前置いて博士は首を振った。 「こんな機械はないほうがいい」 なぜ、と俺が聞くより早く、博士は装置に近づき電源を入れた。スクリーンが次々と起動し、計算式と思しきものを高速で映し出す。ガラス張りのカプセルはぱりぱりと電気を帯びた音を立て始めた。 「実 験でわしは十分前の過去に戻ることができた。しかし十分を遡るということは、世界中の人間の、その十分間にあった出来事をなかったことにしてしまうという ことでもある。未来を知っているわしが存在する時点で、そこは本来の十分前とは異質なものだ。同じ未来は二度と訪れない。 十年をリセットしようものなら、その十年間にあった出来事、生まれた命、紡がれた関係。みんななかったことになってしまう。そんな身勝手なことをする権利なんか誰にもないだろう」 博士の口調は穏やかながら、目の色は厳しかった。 「だからこの発明はお蔵入りなんだ」 部屋の外から電話のベルが鳴って、博士が席を外した。彼の背中でドアが閉まると同時に俺は立ち上がった。取り落としたココアのマグにも構わず、吸い寄せら れるように足は装置のほうへと進んでいく。足元のひときわ大きなレバーを引けばカプセルのふたが持ち上がった。その中に体をすべり込ませながら、俺の頭の 中では博士のせりふがリフレインしていた。『そんな身勝手なことをする権利はだれにもない』。 初見でも操作ができるぐらいに、インターフェイスはよくできていた。手元のパネルを操作して、日付を十年前に合わせる。 世界中の人間を裏切ることになったとしても構わない。 俺たちが笑いあえる明日、カイルが笑っていられる明日のために。 もう一度、やり直せるものならば。 |