慟哭


視線を上げると、トシの顔色は真っ白だった。
見開いた目、眦に盛り上がったのは涙に見えた。がばと顔を覆うと膝を捌く。
口を開くけれど言葉が見つからない、声をかけあぐねる俺に介さず、トシはそのままふらふらした足取りで部屋を出て行った。

「どうしたんだ、あいつ」
うろたえて誰にでもなく聞けば、ま後ろでグラスを煽っていた総悟が鼻を鳴らす。
「嬉し泣きでさぁ」
「隊長」
咎めるように云ったのは山崎だった。
何のことか分からず二人を見比べる俺に、山崎は眉をひそめた。
あんたたち、あれだけ一緒にいたのに。
「ほんとにわかんないんですか」
そう云った山崎は、どこか可哀想なものを見るような目をしていた。俺は腹の辺りでごわりと何かが湧き上がったのを感じた。




部屋にいてくれるといい、そう願いながら身体を前に運ぶ。焦りと不安に似た奇妙な感覚に囚われ、足元はらしくもなく揺れる。
宿舎棟に入り角を曲がったところで部屋の前、座り込んでいる人影を見つけて、
「トシ」
短く呼んだ。
膝に顔を埋める、トシの背中は小さく丸まっている。
返事もないことに心細さを憶えて、俺はトシの前にそっとしゃがんだ。

「…けも」
「え?」
聞き取れなくて耳を近づければ、
「わけ、もわからね、のに、追、かけて、じゃ、ねぇよ」
途切れ途切れに声が云う。鼻を啜る音、くぐもった語尾。
無意識に手が伸びていた。前髪を掬い額をそっと撫でる。
真っ赤に泣きはらした、見たこともないほど頼りなく潤んだ瞳。
覗き込めば瞬いた、瞼が引きつった。
「ふ、」
それを皮切りに、トシの喉から潰れた長い吃音が漏れた。
それが泣いているのだとわかるまでに暫しの時間を要した。声は混乱する思考に、奔流のように注ぎ込む。
晒す喉が白く、瘧みたいにひくつくのが痛々しくて、とてもじゃないけれど顔を見ていられなくなって肩を抱いた。泣くな、という思いなんて身勝手で力なく、声にもならない。

跳ねる背中を宥めて撫でる。喘息の子供のように咳き込む、身も世もなく喘ぐ、振り乱す前髪が濡れた頬に張り付く。いつものトシの面影なんか欠片もなかった。

抱きしめれば鎖骨の辺りに吐き出される吐息が短く熱い。嗚咽が心臓にひどく爪を立てる。この世の終わりのような哀しみ、喉から血が出るような痛み、が俺の中に容赦なく流れ込んできて、胸が金槌でどんどんと殴られているようだった。息が止まってしまうかと思った。
逃れる術もなく、目の前の身体を強くかき抱く。

こんなトシを目の当たりにしては、いくら鈍い俺でも、
理由を悟った。





泣き疲れて最後は気を失うように眠ったトシを布団に入れ、一晩寝ずに過ごした。
迷いはなかった。選択肢はどうしたってひとつしか見当たらなかった。


翌日は丸一日かけて各方面に土下座をして回った。先方はもちろん、俺のことを気に入ってこの話を持ってきてくれた本庁のお偉いさんの顔を潰すことにもなって、謝ればすむような問題じゃなかったのだけれど、とにかくこの話はなかったことにしてください、と頼んだ。
朝イチで引っ張り出して行きの車で突然意向を告げた、とっつぁんには宥めたり梳かされたり怒鳴られたりしたけれど、俺は理由も言わずにただ頭を下げた。俺のわがままで、すみません。それだけ繰り返したら黙って肩を落とされた。
後々まで禍根を残すことも重々承知で、仕事だっていろいろやりづらくなる、そんなことがわからないわけじゃない。それでも。


さんざんもめた後帰ってきて夕方、組のみんなには破談になったことだけ伝えた。思いのほか動揺はなく、そんなこったろうと云われ、残念会がどうのという話になったのには苦笑いが漏れた。
総悟は面白くなさそうな顔をしていた、でも思えばあいつは昨日もいい顔はしていなかった。
ほんとうに、俺は何にも見えていない。こんなに身近にいる人間のことすら、俺には何にもわかっていなくて、それが酷く不甲斐なかった。




朝布団をかぶったまま出てこなかった、トシは病気だということにして人払いをしておいた。
山崎から一日何も食べていないと聞いて、俺は握り飯を一皿抱えて部屋に向かった。

真っ暗な部屋に入り、電燈のひもをひっぱる。
布団の横にどんと膝を落とし、脇に皿を置いた。
「トシ、聞いて」
少しだけ布団が動いたから、こいつは起きている。俺は腹から声を出した。
「縁談、おじゃんにしてきたから」
端を掴み、引っ張った布団がずるりとめくれて、見えた目元は腫れぼったくなっていた。二枚目が台無しだ。重いまぶたがちりと震える。

お前のためとかそういうんじゃないけど。そんな恩着せがましいことなんか云わないけど。
「俺、お前を泣かせてまでしたいことなんか何にもねえから」

トシはわずかに頷いたように見えた。
長い長い沈黙。俺はじっとトシを見つめていた。

引き結ばれていた唇がようやく僅かに開いて、掠れきった音を出す。
「、んどうさんの、いちばんが、」
「うん」
促すように相槌を打つ、
「おれじゃないのは、いやだ」
幼い言葉が、トシの低い声に乗るのを俺は目を細めて聞く。そのくせ無感動な口調だった。外耳にぴりぴりと電気のようなものが走る。

長く細い息を吐く、トシの目はどこか空ろだった。
「おれ、」
ごろんと仰向けになり、右手の甲で額を覆う。左手は布団の上にあった俺の手に触れ、無造作に握った。
「おかしくなっちまったかもしれない」

「ああ」
俺はゆっくり頷いた。
事実そうなのかもしれない、そしてそれはみんな俺のせいなんだ。
そう思ったら頭の芯がじんと、微かに甘く痺れた。







090413