慟哭


景色が一瞬閃いたようになってぶれる。地面は足の裏で堅い。金槌で後ろから叩かれたかと思ったのに、自分が倒れていないことにむしろ違和感を憶えた。
耳慣れない単語の羅列だけが頭の中をぐるぐる回る。

「あれ、あいつお前に何にも喋ってなかったのか」
暢気に響くとっつぁんの声を遠くで聞いても、相槌も打てなかった。

こめかみに心臓があるみたいに、ずくんずくんと高速で疼く。頭の天辺が熱を持って膿んだようにじくじく軋む。
とっつぁんの話はまだ続いている。結納がどうの、仲人がどうの、式場がどうの。もういい。わかった。黙れ。おれは口の中だけで呟く。要するに話の概要は、

近藤さんの縁談がまとまった、ということだった。




幹部会議室に持ち帰った資料を放り投げて、ホワイトボードをおざなりに手で拭って、顔色が悪いと云ってくる山崎をあしらい、おれは自分の部屋へ引きこもった。


電気も点さないで布団に座りこむ。静寂が耳を打ってもおれの心は凪いでくれない。
出しっぱなしになっていた机の上の灰皿を見遣る。もう何時間も煙草を吸っていないことを思い出したけれど、胸が喉元までせりあがっているようで、今はとてもじゃないが吸う気にはなれなかった。

どさりと上体を倒す。天井の木目、動いているはずなんかないのに生き物のようにゆらゆらゆれる。
いくらおれだって。いくらおれだってまさか、可能性を知らなかったわけじゃない。薄らぼんやりとはいえ、いつか来る未来のことと想像していた。
だって彼は女好きで、立場上そろそろ身を固めなきゃならない年で。そう、所帯を持ったらさぞや傍目にうざいぐらいの愛妻家、おまけに子煩悩になるだろうななんて、現実味もなく考えたりした。

ただ、頬に手形を作って帰ってくる彼を見てはどこかで、ずっとこの日常が反復されるような錯覚に陥って、それでおれは安堵していた。
今日も明日もどこにも行かずに、同じだけの距離で、おれのすぐ隣に、いるものだと、その傲慢で子供じみた確信を、おれは疑おうともしなかった。

真っ白になった思考に、段々と色がつき始める。酷く悲しく、深い藍だった。
自分がショックを受けた理由、がようやく言葉として形をなす。ばかばかしい、女々しい、浅ましい、けれどこの執着につける名前を他におれは知らない。
じわりと、インキが漏れるみたいに藍が胸を侵食する。
だってずっと一緒にいた。誰より近くにいた。近藤さんだっておれと同じ気持ちのはずだと、同じ気持ちでおれの隣にいると、
そうじゃないなんて、今更なんで、



「トシ、寝ちゃってる?」
呼ばれた名前に、反射的に跳ね起きた。

そっと戸を開けた近藤さんは布団に座るおれを見て、不思議そうに首をかしげた。
「なんでこの部屋暗いの」
蛍光灯のヒモをひっぱり、歯を見せて笑う。返す言葉もなく呆然と見上げるおれの、目の前に近藤さんは膝をついた。
正座し、正面から視線をあわせてくる。
「な、トシ、聞いて」
飲み込んだのは悲鳴だったかもしれない。おれはやっとのことで上体を後ろにそらした。そのぶんだけ近藤さんはおれのほうへ傾いてくる。
「誰より先にお前に報告したくて、」
首を振ろうとしたら頭ごと震えた。おれはかつてないほどの恐怖に囚われて唇を弾いた。
「、くねぇ」
「え」
ひきつる喉から搾り出す。
「聞きたくねぇ」
「そんなこというなよ、めでたい話なんだ」
「聞かねぇ」
ぼんやりと知覚していたおそろしいものが、どんどん現実味を増していくのをみたくない。あんたの口から突きつけられたら息が止まってしまうかもしれない。
いぶかしげな近藤さんに、おれはやっとのことで云った。
「……知ってるよ」

「なんだ。知ってたの。とっつぁんか」
拍子抜けしたみたいに肩を落とし、今度はやに下がって相手の女のことを喋りだす。やめろ。そうは云えずに俯いた。俯いて、身振りをする近藤さんの膝の辺りをただ睨んでじっと耐えた。言葉は意味を結ばずおれの頭の上を幽霊のように通り過ぎていく。このひとの声が苦痛だなんておれはうまれて初めて思った。
ひとくさり話すと声は止んだ。数瞬も遅れて気づいて、おれはよせばいいのに顔を上げてしまった。高潮した頬、輝いた瞳。

おれは察した。
このひとはおれの、
おめでとう、を待っているんだ。
そう思ったら意地でも言いたくなくて、でも云わなければ多分このひとはこの場を動いてくれそうになくて、散々逡巡して、

「、めでとう」
蚊の鳴くような声を出した。それは翻っておれを打ちのめした。
「よかった」
近藤さんは心底ほっとしたような声を出した。小さくガッツポーズを取る。
「トシに云われて初めて、やっと俺も実感沸いてきた。おめでたいって気分になってきたぜ」



近藤さんが部屋を辞すまで、よくおれは我慢をしたと思う。

姿が見えなくなったとたん後から後から、こんな水分が体のどこに詰まっていたのか不思議になるほど涙が出てきて、あんまり出てくるものだからおかしくなった。
母屋のほうからどっと沸き立つ歓声がここまで微かに聞こえる。今日はどうせどんちゃん騒ぎで、近藤さんは自分の部屋には帰ってこないだろう。


つっぷして布団をかぶっても、後から近藤さんの声が浮かび上がってくる。
べっぴんで気立てもいいと云った。家柄もよくて組のためにもなるとか、でも、だからなんだっていうんだ。なんだっておれじゃないんだ。
いやだ。いやだ。いやだ。理屈なんかわからない、ただ身を裂くような哀しみが肺までを満たす。

泣きすぎて息が苦しくなって、吐き気まで催して、それでも嗚咽は喉を叩く。
ひくつく喉が忌々しい。なんて見苦しい。命乞いをしているようだ、とおれは思った。





翌日は夕方から、改めて宴席が設けられた。
どこからもってきたやら、紅白幕が張り巡らされており、近藤さんの席のあたりには隊士お手製のちゃちな花紙で、横断幕が「局長迎春おめでとうパーティ」と謳っている。

ひきずりだされて宴席には来たものの、とにかくおれは疲れていた。涙が枯れればただ虚脱だけがおれを支配していた。
泣きはらした瞼を見て、同じように泣きはらした目をした原田があんたも嬉しいんだな、と平手で二の腕をたたいてきて、そういうふうに見えるのか、とぼんやり思う。何も云わずにおれは酒を啜った。

近藤さんといえばさんざん隊士の間を飛び回って酒を注がれて、肩を組んで嬉し泣きをして、今までこんなにはしゃいでいる彼をみたことがないくらいだった。
今ここに、自分という存在が酷く不似合いに思えた。実際そうなのだろう。この座敷には彼を祝うひとしかいない。いちゃいけないのだと、強く思った。
グラスが半分ばかり減ったところで、腰を上げようとしたら肩を押さえつけられた。

全く不意におれの前に腰を落とした、近藤さんはふざけてはいなかった。改まっておれの腕を強く掴み、
低い、穏やかな声でおれの鼓膜を塞いだ。
「今まで悪かったな」
女に振られては絡んで、迷惑かけたよな。
もうおれもしっかりして、お守りさせねえようにするから。

「お前も安心して、誰かいいひと見つけろよ。お前ならすぐだよ」

背中をばんばんと叩く、掌がやたらと熱い。
なんでこのひとはこんなに酷いことをこんなに優しい目で云えるんだろう、
なんだよ、偉そうに。そう毒づいてやりたかったけれど、もうおれには言葉もない。


視界がゆっくり歪んでいく、ここでこのひとに看取られながらこんな死に方をする恋を想ったら、もう幾許も目を開けていられそうになかった。






090408