ミルキージャンク・1


洗面台に向かい、プラスチックのカップを取って鏡に視線を上げると、俺の隣で仁王立ちになっているトシに気づいた。
あんなにマヨネーズ食べてる癖に低血圧だから、朝はぎりぎりまで起きてこないことが多いのに。
「おー、トシにしちゃ早」
云いかけたところでばつん、と袷の前をはだけられた。
「どーだ」
見慣れた顔、の下に、見慣れぬ丸い膨らみがふたつ。
トシの顔とそれを交互に見遣って、頭の中で処理しきれない情報がこんがらがる。
俺がパソコンだったら絶対火を噴いている。

思わず取り落とした歯ブラシが、シンクの底でカツンと鳴った。

「どーだって…トシそれどうしたの」
狼狽した俺がやっとのことでそれだけ漏らすと、
「昨日アンタ云っただろ、おれが女じゃないからダメって」
トシは鼻を鳴らして言い放った。

「だから女になった。これで文句ねェな」
俺は軽く眩暈がして後ろにのけぞった。がたん、と音がしてステンレスの棚が肩甲骨の辺りでびりびり揺れる。





『だから散々云ってるだろ、おれが付き合ってやるって』
昼間ナンパした女の子に手ひどく袖にされた。お決まりのグチが一通り終わると、黙って聞いていたトシがこっちに思い切り身を乗り出してきた。
『どうしておれじゃダメなんだよ。わけわかんねぇ』
心底不服そうに詰め寄られ、俺はいい加減に痺れを切らした。
酒も入っていたし、売り言葉に買い言葉で、おれは云わないでいようと硬く心に決めていた言葉をとうとう口に出してしまった。
『だからトシは、』

女の子じゃないでしょ!
声は思いのほか強く響いて、しまった、と思う。

トシはぽかんとした顔でこちらを見つめ、それからきっとこちらを睨みつけた。目じりには涙が滲んでいた。

荒っぽい所作で裾を捌き立ち上がる。叩きつけるように障子が閉められ、途端にじくじく胸が痛み出した。
傷つけたくなかったから、ずっとはぐらかしてきた。
だって性別のことはトシが悪いんじゃない。
偽善じみているけれど、そんなどうしようもない理由であいつを突き放すのは酷いと思ったから。

おれはばちんと自分の頬を叩く。
ため息を吐いて、グラスの残りをあおった。


それが昨日の晩のこと。






左右にずらりと座った幹部。おれはしかつめらしい顔をして腕を組んだ。
襖の外には機密会議中、と朱書きの半紙を出してある。
「トシ、そこに座りなさい」

着流し一枚のトシが不精ぶしょう座布団に腰を下ろしたところで、徐に机の上に薄紫色の果物を突き出す。
林檎と桃のあいのこのような形をしている。生態系が狂うってんで税関で止められてるご禁制の植物。この間不法入国の天人を検挙したとき押収したものだ。
こういうのは貿易管理局に引き渡すことになっているから、厳重に保管してあったはずだ。それを金庫破りの真似事をしてぱちったらしい。

案の定、山崎を引っ張ったらすぐに吐いた。俺の影に隠れた山崎がトシの視線にびくついている。
「俺は止めましょうって云ったんですよォ」
涙声で訴えずとも、目の下にでかい青たんを作っている山崎は嘘を云ってはいないだろう。

緊急事態ということで天務省の役人を口八丁手八丁でごまかし、どうにかこうにかひとつ貰ってきた。仕組みはよくわからないが、なんでも一定量を摂取すると性別が逆転してしまう代物らしい。
「もう一個食ったら元に戻るそうだ。食え」

トシはぷいとそっぽを向いた。
「トシ!」
机をばんと叩くと、トシはこちらを一瞥して低く唸った。
「あんたのために女になったんだ、礼を云うのがスジじゃねェの」

俺は口から何かが漏れ出そうになった。
怖ろしいのはこいつがこれを本気で言っているということだ。

「これでガキも産めんぞ」
目を細めながら煙を吐く。
「そういう問題じゃないでしょ!」
っていうかそんなら尚のこと煙草やめなさい。
ふかしていた煙草を取り上げると、亭主関白だな、と頬を赤らめた。勘弁してくれ。俺もう半泣き。


「あーあー、みっともねェモンぶらさげちまってまァ」
間延びした声が場に飛び込んできた。
遅れて入ってきた総悟が襖を後ろ手に閉める。

ずかずかと俺のところまでやってきて、トシの胸元を指差す。
「いけねぇよ近藤さん、こりゃタレる乳だ」
二十代でコレだ、そのうち目も当てられないくらいになりやすぜ。
抑揚のない声でそう云いながら、メリケンの人みたく、肩を竦めて首を振る。
「タレ乳の副長なんざ使い物になりやせん。クビにするしかねェですよ」
もちろん後任は俺でさ、親指をグッと立てる総悟にトシがものすごい剣呑な視線を送っている。
「抜かせ」
「あー、こらこら喧嘩しない」
膝立ちで抜刀しようとするトシを抑えると、総悟がニタリと笑った。
「表出ろィ」
「上等だ」


転がるように部屋を出て行く二人の背中を見送ると、俺は肩を落としてみんなを振り返った。
「すまん、なるべく早く説得するから」
辛抱して、フォローしてやってくれ。頼む。頭を下げる。
隊長連中は一様にしょっぱい顔をしている。
「まあ副長なら」
「やりかねないっていうか」
「もう慣れました色々」
諦観したような声がちらほらと聞かれる。
ごめんな、苦労かけるよな、みんな。俺は唇をかみ締め、もう一度深く頭を下げた。




俺を見つけて中庭から走り寄ってきたトシに、わざと気づかない振りをして歩みを止めなかった。
「なぁ近藤さん、なんで怒ってるんだ」
並んで歩きながら不思議そうに尋ねてくる。本気で云ってるのか、こいつ。
ちらと見やれば併せが豪快に肌蹴ていた。ちょっとは恥らいなさい。
あまりそっちを見ないようにして、前をぐいと合わせてやる。

じっとこちらを見上げてくるトシを改めて観察する。
胸は腫れているが、肩幅はがっちりしているし、確かによく見れば身長も縮んでいるけれど、きっと十センチも変わらないと思う。遠目で隊服を着ていたら誤魔化せてしまうだろう。声もあまり違和感はなく、女の子のそれとしてはかなり低い。

まじまじ見ていたらいたたまれなくなって、俺は外ポケットに入れていた果実を突き出した。
「食べなさい」
「やだ」
こいつ即答しやがった。睨み合い、膠着状態が続く。
こちらを射るように向けられる目。俺はこれにあまり強くない。
「あのなぁ、」
先に折れた俺が肩を落とすと、トシは頑として云った。

「おれはあんたと夫婦になるまで、戻らない」


…なったら戻るのか。あれ?でも男に戻ったら夫婦じゃなくね?
クエスチョンマークだらけになって絶句している俺をどう思ったのか、トシは口角を持ち上げた。



071018