ステイチューニング(前)



 警護の隊士を短くねぎらい、病室の扉を開ける。
「入るぞ」
 部屋にベッドはひとつ。白が基調の部屋に消毒液の香り。カーテンを回り込んで奥へと進むと、パイプ椅子に座っていた山崎は立ち上がって俺に会釈をよこした。
「容体に変わりは」
 山崎はゆっくり首を振った。どうぞ、と勧められ、椅子に腰かける。ギイと鉄が軋み、俺は横たわるトシのほうへと身を傾けた。
「トシ」
 返事が返ってこないことを知りつつも、名前を呟いた。点滴のチューブに繋がれたトシは、こんこんと眠り続けている。
 身体の傷は順調に癒えていると医者は言った。それでもだんだんと顔から生気がなくなっているように見えてたまらない。

 トシの乗るパトカーが単独事故を起こしたのは三週間前。本庁からの呼び出しに一人で応じた帰り、寝不足からか、見通しの悪いカーブでガードレールにつっこんだ。車両は大破しており、俺は現場の写真を見て、よくあんな怪我で済んだものだとぞっとした。
 幸い怪我自体は腕と肋骨にひびが入ったくらいのものだったのに、頭を強く打ったらしく、意識だけが戻らない。原因は医者にもわからないらしく、頭はデリケートなところですから、と言葉を濁されるばかりだ。

「着替え、持ってきた」
 紙袋を掲げると、山崎は少しほっとしたような声を出した。
「あ、はい。ありがとうございます」
 作りつけのロッカーの前にしゃがんでしばらくごそごそした後、山崎の手がベッドボードの水差しに伸びる。 
「水、汲んできますね」
「ああ、頼む。ついでに一息入れてこいよ」
 山崎は深く頭を下げ、部屋を辞していった。鉄と交代とは言え、ここで日がな一日詰めているのは憂鬱だろう。いつも暴政に敷かれている身だからこそ、こんなトシを見ているのは人一倍辛いはずだ。

 点滴の、ぴちゃんという音だけが響く。部屋に二人残されて、俺は手の甲をひたりとトシの頬に当てた。頼りないほど小さい。こんなに小さかっただろうかと思う。
 俺はもう一方の手を自分の懐に当てた。こちらは対照的に、熱をもっているような錯覚がする。胸ポケットには一冊のノートがある。

 着替えを取りがてら、トシの箪笥からこれを見つけたのは偶然だった。
 箪笥の奥、肌着の下に隠すように仕舞われたそれ。年季の入ったものから最近のものと思われるものまで、何冊もあった。日記帳だろうかと、下世話な興味も手伝って、何気なく開いて俺はぎくりとした。
 トシの字で綴られている自分の名前。一行に二度も三度も出てくる。俺がどこの女に袖にされただの、どこにツケを作っただの、どこで迷惑をかけただの、どのページもそんな塩梅で、というか俺のこと以外ほぼ書いていなくて、
 苦笑しながらめくっていくうちに、どうやら様子がおかしいことに気づいた。あいつの悩んでいるのは俺の素行や出来が悪いせいではないようだったから。
『こんな気持ちはなくなってしまえばいいのに』
 そう綴られた一文で、目が釘を刺されたみたいに止まった。

『純粋な友人でいられれば、純粋な好意だけでいられたら。彼の幸せを害することもないのに。このまま彼の傍に、こんな気持ちで、いつまで居続けることができるだろう?ほんとはそんな資格はもうないんじゃないのか。それでも、』 
 繰り返し繰り返し気持ちを吐露し、行っては帰り苦悩する。字はしばしば荒れ、ぐしゃぐしゃに塗りつぶされた箇所もあった。
『あんたの名前をどれだけ吐き出したら、あんたは俺の頭から出て行ってくれるんだろう』

 一文ずつ噛みしめて、やっとのことで飲み込んで、体中から血が引いていくような錯覚がした。
 トシが事故を起こしたあの日、俺はとっつぁんの薦める見合いをしていた。今度は美人でうまくいくかもしれない、だなんて報告をしたかもしれない。電話の向こうのトシがどんな声音をしていたか覚えていない。覚えていない、ということが怖ろしかった。
 ブレーキ痕は妙に短かった。もし、積極的に自死を望んだのではないとしても、こいつが、死んでも構わないと思っていたのだとしたら。


「トシ」
 俺はトシの手を握る。指先はぞっとするほど冷たくて、何度も握り直した。こみ上げてくる嗚咽を噛み殺す。
 もうずっと長いこと、隣にお前の体温があるのが当たり前だった。いつだって傍にお前がいないことがこんなに心細いなんて思わなかった。
 頼む。俺を、
「……いていかないでくれ」

 搾り出した語尾が静寂にゆっくりと溶ける。その下から微かにうめき声が聞こえて、俺はがばと身を起こした。長い睫毛が震え、眩しそうに瞼が持ち上がる。
「トシ、トシ?」
 呼びかければトシのささくれた唇は微かに、けれど確かに動いた。よかった。と、呟いたように聞こえた。
「おい誰か!トシが!」
 入口に向かって力の限り叫ぶ。俺は涙声になってしまっていた。



「おかえりっ」
「ああ」
 玄関で出迎えたトシは、いつもと変わらない隊服姿で、もうしゃんと背中も伸びていて、病み上がりとは思えないぐらいだった。屯所にちゃんとトシがいる。そのことがただ嬉しくて無性に感激してしまった。
「検査の結果も上々だそうだです。寝たきりだったぶんどうしても筋肉は落ちちゃってるので、実戦に戻るまでリハビリは必要でしょうけど」
 山崎がトシの後ろから顔を出す。両手にかかえていた紙袋をひとつ受け取る。中には歯ブラシやなんかが入っていた。
「いいよいいよ。復帰なんかいつだっていい」
 鼻をすすりながら首をぶんぶん振ればトシは、迷惑かけたな、と頭を下げた。
「よせよ、水臭い」
 背中を叩けば、隊服の布地が心なしか余っているような気がする。
「少し痩せたか」
「そうかな」
「快気祝いしようって、みんな張り切ってるぞ」
「いいよ。そんなに騒ぐことじゃない」
 話しかけても反応が全体的に薄く、淡々としているように見えるのが気になるが、まだ本調子じゃないのだろう。


 俺は日記のことをトシに打ち明けようか打ち明けまいかさんざん悩んで、結局元の所に戻し損ねてしまった。
 だって一度知ったことはなかったことにはできない。
 あいつと、同じ気持ちになれるかはわからない。それでも。トシを失いそうになった時の恐怖を、それからこれだけ長く悩みながらも傍にいてくれたことへの感謝を。もどかしさを。
 俺たちがこれからも一緒にいるために、話さなければならないと思った。

「入るぞ」
 返事を待たずトシの部屋の戸を引けば、トシは書き物机に向かっていた。俺の方を振り向いて、回していたボールペンを置く。
「どうした」
 俺はトシの前に膝をついた。いざとなると顔がまともに見られず俯く。
「その、これ、」
 意を決して袂からノートを出し、畳の上に差し出す。
「読んじまったんだ。すまん」
 頭を思いきり下げたが、
「ああ、それ読んだのか」
 想像に反してトシの返事はあっさりしたもので、俺は戸惑いながら面を上げた。トシはノートを一瞥すると早々に顔を書類に戻してしまった。
「気にしないでいい」
 落ち着き払った反応に拍子抜けして、俺はごくりと喉を鳴らす。
「いや、気にするなって言われても、」
 俺はトシの前に回り込んだ。正面から目を合わせてもトシに動揺は見えない。
「もう、あんたにそういうおかしな気持ちはないんだ」
 トシは警備の配置でも説明するかのようなトーンで話し始めた。
 曰く、生死の境をさまよって、目が覚めたら、どういうわけか俺へのおかしな執着はすっかり消えてしまった、と。
 言われて、俺の頭は真っ白になってしまった。その表情をどう思ったのか、トシは少し眉を下げて俺の腕のあたりを軽くたたいた。
「心配しないでくれ、今もちゃんとあんたが大事だし、人間として誰より好きだと思っているよ。あんたを利するためにならどんな苦労もいとわないし、なんだってしようと思う」
 ただ。そう前置いて、小さく笑う。
「今のおれは、あんたがどこかの女と所帯をもって幸せになってほしいと素直に思える。変な執着や嫉妬であんたの足を引っ張ることもない。よかったよ」
 抑揚のない声に、俺は口を閉じることも忘れた。
「話はそれだけか?すまない、今これを片付けちまわないとならないから。また改めて付き合うよ」
 そう言われてしまっては頷くしかない。俺は呆然としたまま、トシの部屋を後にした。



 あれからトシはすっかり別人のようだ。
 気性も穏やかになり、激高して雷を落とすことも刀を振り回すこともなくなった。常に冷静で公平で沈着、他の隊士と雑談をすることもほとんどなくなり、からかわれても苦笑いを返すだけ。みんなでわいわいやっていてもひとり黙って煙草をふかしていることが多くなった。
 その変化に隊士たちも初めは戸惑っていたが、極めて理性的になったあいつの言動に、頭を打って人が丸くなったなとか、あれが副長に相応しい風格だなんて評判は悪くない。
 そうそれは、きっと以前のあいつのなりたかった土方十四郎なんだ。

 総悟はといえば、反応の悪さに呆れたのかめっきりちょっかいをかけることもなくなった。総悟から一方的に発せられるぴりぴりした空気を、トシは気にする様子もない。


 斜め向かいの席で食事をしているトシは、箸を止めて書類を持ってきた山崎と打ち合わせをしている。
「副長、ここが空欄になってますけど」
「ああ、本庁の警備部のほうと打ち合わせしてからだから、保留にしておいた」
 今までのあいつなら急用でもない限り、食事中に邪魔されたら不機嫌を隠そうともせず、場合によっては問答無用で鉄拳を落としてから書類を受け取っていたものだ。
 二人のやりとりを複雑な気持ちで眺めながら干物の身をほぐしていると、食堂の戸がガラガラと大きな音を立てた。見やれば総悟が、踵を鳴らしてまっすぐトシの座る席に近づいてくる。
 総悟が振りかぶった腕に気づいた時には時すでに遅く。止めに入る暇もなかった。
 ぶばっ、と破裂音が響き、トシの頭が真っ白になった。総悟がマヨネーズを顔面にぶちまけたのだった。俺の膝は反射的に伸び、足元でがたんと椅子が鳴る。ざわめきは食堂中に広がっていき、みな固唾を飲んで事の成り行きに注視している。

 トシはおもむろに顔を拭うと、ふう、とひとつ溜息を吐いた。呆れたようでもない、静かな声だった。
「どうかしたか。何か思うところがあるなら口で言え。これじゃわからない」
 総悟の目がみるみる丸くなる。震わせた唇をしっかりと引き結ぶと、勢いよく踵を返した。その場にはマヨネーズの容器だけがからんと落ちる。
 俺はもういてもたってもいられず、食べかけのトレイをそのままに、総悟の後を追った。

 総悟は廊下のどんづまりで立ち止まると、だん、と壁を殴った。入ったひびからぱらぱらと漆喰が落ちる。二発、三発と壁が鳴る。
「総悟」
 俺はなんて声をかけていいか判らず、背中からただ名前を呼んだ。総悟は俯いたまま俺に向き直ると、黙って抱きついてきた。
 俺の胸に埋めた表情は伺えない。総悟は唸るように言った。
「俺は認めない、あんなのは、おかしい」
「総悟……」
「そう思いやせんか!」
 どん、と胸板を拳で叩かれてはっとする。総悟の目は幼い頃、俺に叱られたときのように揺らいでいる。
「今のあいつなら、あんたが死んでも涙ひとつ流しやせん。変らず組を切り盛りするでしょう。それがあんたの遺志だとか言って」
 総悟の声は言い募りながら、いびつに歪む。
「以前のあいつなら追い腹していた。それ以前に何が何でもあんたを死なせやしねえ。だからあんたのことにかけちゃあ誰より強かった。どんなになっても譲らなかった、だからおれは、あんたの隣をあいつに、」
 詰まったように言葉が途切れた。再びそっと、額が襟元に擦り付けられる。つむじが揺れてさらりと髪が滑る。鼻をすする音が俺の胸を締め付けた。 そうだ。かつてのトシを喪ったのは俺だけじゃない。俺は右腕で硬く、総悟を抱きしめた。
「総悟、待ってろ」
 必ず俺が、あいつを連れ戻してみせるから。うん、と返事をした総悟の手を左手で取る。熱く汗ばんだそれを、今一度握り直した。