平行世界マルジナリア(前)



まだ明け方なこともあって駅に人影はまばらだ。
切符を握り締め、改札を前にして俺は立ち尽くす。

配属されてから最初の休みだった。初めてまっとうな手段で稼いだ金、それで買った切符。心変わりできないように日付指定のものを買った。
今日こそ行ける気がしたのだけれど、いざここまで来ると足が根が生えたように動かない。
おれはこんなに腰抜けだっただろうか。

眺めるともなしに構内の時計を見ていると、背中にどん、と衝撃が走った。
「どしたの。入らねえの」
心臓が口から飛び出るかと思うぐらいびっくりした。振り向けば私服姿の近藤さんがいて、二度目を瞠った。
俺は口をぱくぱくさせながら尋ねる。
「なんで、あんたが」
「それ」
握り締めた切符を指差されて肩が揺れた。
「ここ一週間、暇さえあればそれ引っ張り出してためつ眇めつ眺めてただろ」
見られていたんだ。頬に血が集まる。近藤さんは、ごめんな、盗み見するつもりはなかったんだけどよ。と慌ててフォローに入った。
「な、」
肩にぽんと手が乗せられる。
「行きたいんだろ?でも一人じゃ踏ん切りつかねえんだよな」
近藤さんは不格好なウインクをよこした。
「俺も一緒に行ってやるよ」
「い、一緒に、って」
おせっかいも局長の仕事ですから!と胸を張られては敵わない。あれよという間に押し切られ、背中を押されて改札を潜った。

電車に乗ってしまえば他愛ない会話が続く。近藤さんは乗り継ぎ駅で駅弁を買おうなどとはしゃいでいて、俺の気分は大分紛れた。
ターミナル駅で、乗り換えのホームに危なげなく先導されてやっと、このひとにとっては慣れた帰り路なのだと気づいた。当たり前だ。このひとの地元でもあるのだから。

窓に映る風景は飛ぶように後ろに流れていく。ビルの群れの代わりに緑が増えていき、それと反比例するように利用客が減っていく。ローカル線は途中の駅で連結が切り離されてさらに短くなった。
窓を開けた近藤さんが、緑の匂いがしてきた、と口笛を吹く。
風の音がごうと耳を塞いだタイミングで、俺は思い切って口を開いた。
「……聞かねえの」
「ん?」
唇を舐めて続けた。
「実家で何があったのかとか、なんで帰れなかったのかとか」
近藤さんは斜め上を睨んで、んー、と生返事をよこした。
「お前が話したくなるまで待つよ」
そう言うと、網棚からさっき買った袋を下ろす。
「さ、駅弁食べよ。お腹減った」
俺のぶんを手渡されて拍子抜けした。
駅弁は別々のやつを買ったので、おかずをとりかえっこしよう、などと言われて笑う。子供の遠足みたいだ。
箸を進めるうち、来週組内で行われる剣術大会に話が及んだ。ブロックごとに分かれて対戦する本格的なものだ。年に一度の恒例で皆楽しみにしているのだと近藤さんは言う。
「お前もてっぺん狙えよ」
「言われねえでも」
楽しみにしているのは俺だって同じだ。雰囲気に飲まれてここ一月は練習量が倍になった。
ペットボトルのお茶を飲み干すと、
「お前の剣はさ、強いのに、どっか寂しいんだよなあ」
ぽつりと近藤さんが呟いた一言が、耳にじんと残った。


降り立った駅前は随分と様変わりをしていた。
コンクリートで舗装され、小さなロータリーもある。真新しいスーパーができていたのにも驚いたが、思えばあれから十年も経っているのだ。

きょろきょろと辺りを見回し、近藤さんのほうを振り返るとどう思ったのか、彼はここにきて初めて歯切れの悪いことを言い出した。
「どうする、ここで待っていようか」
俺は首を振った。
「いいや、」
乗りかかった船だろ。しまいまで着いてきてくれよ。苦笑混じりに頼めば、
「お、おう」
近藤さんは、まかせろ、と胸をたたくので、俺はもっとおかしくなってしまった。

駅から少し離れると、すぐに舗装されていない道路と畑が姿を見せる。土と夏草をわたる風の匂いが鼻を衝いで、初夏の日差しが燦燦と頭上に降り注ぐ。心なしか江戸よりも眩しい気がした。
途中の花屋で仏花を買うと、小さい頃の記憶だけを頼りに道を辿り、菩提寺へと向かう。
寺は欝蒼と茂った小高い山の上にある。何度も兄貴に連れられて上った。あのころあんなに高く、果てなく思えた石段は、大人の今ではあっけなく上りきってしまえるほどのものだった。
手桶に水を汲み、裏手の墓地に回る。ここまで来ると近藤さんも神妙な表情で、口数も少なくなっていた。

灰色の石の群れを見渡す。左奥、樫の木の近く。
「……あった」
墓石に刻まれた文字を見つけて、身震いが走った。自分を奮い立たせるように足を前に進める。
向き合えば辺りはよく掃除されていて、線香からは今供えられたばかりのように煙が昇っていた。家の者と鉢合わせしないように彼岸とは時期をずらしたのに。

「トシ」
遠くから呼ばれた名前に肩が跳ねる。
「貴方、十四郎でしょう」
ぎこちなく振り向けば、本堂の方から手桶を持った女が駆け寄ってきた。
「大きくなったねえ」
顔中をくしゃくしゃにしてほほ笑むのは誰でもない。記憶よりも老い白髪が増えているものの、間違いなく義姉だ。あの家で俺を人間扱いしてくれたのは彼らだけだった。
取り落とした手桶が足元に転がる。俺は大きく頭を下げて一礼した。謝罪も、感謝も、いくらでも伝えたいことはあったのに、言葉はなにも出てこなかった。
「いいのよ、いいのよ」
感極まったように首を振って、義姉は俺の腕をさすった。
「今はどうしてるの、困ってはいない?」
首をぶんぶん振った。みっともない。そう思いながら鼻をすする。
「真選組、ってとこで、」
声はかすかすで、なかなか言葉の紡げない俺に代わって、
「局長の近藤です。十四郎くんはよくやってくれています」
近藤さんが横で頭を下げてくれた。
「そう、そうなの、」
俺の手を取り、よかった、と繰り返す義姉の手は細くかさかさしていて、それでも暖かくて、気を抜いたら涙が零れてしまいそうでただ眉間に力を入れた。

墓に手を合わせた後、近藤さんが間に入ってくれて、近況をぽつりぽつりと伝える。近藤さんが、責任もってお預かりしてます、なんて言い添えるものだから、子供じゃねえんだからと口を尖らせた。義姉はころころと笑っていた。
家に寄って行けとしきりに誘われたが固辞し、その代わりまた来ると、連絡先を交換して別れた。


駅までの道すがら、
「トシって呼ばれてたんだな、かわいいな」
からかうように言うので、俺は応えて目を眇めた。
「いいよ、あんたもそう呼べばいい」
あんたになら呼んでほしいと思った。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
近藤さんはもったいぶって咳払いをすると、俺の髪の毛を指先でくるくる弄りながら言う。
「トシ」
「うん」
「トーシ、」
「なんだよ」
耳にくすぐったくて照れくさい。俺の方を覗き込むように見た近藤さんが、歯を見せて笑った。不意に俺の手を取り、しっかりと握る。
「手、つないでほしそうな顔してる」
「ばか、」
そうは言ったけれど俺に手を払うことなんかできやしない。このひとはなんで、俺の欲しいものを惜しみなく寄越すんだろう。


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