空白のきみ・8



幸か不幸か、熱をふいてぶっ倒れていた間のこと、おれが近藤さんを忘れていたというその前の数日間のことはすっぽり記憶から抜けている。
だから目を覚ました瞬間近藤さんが縋りついて泣きじゃくり、土下座せんばかりに謝ってきても、何のことかわからずおれは目を白黒させるだけだった。

「知恵熱かなんかだったんですかねえ。その前の記憶の混乱は先触れとか」
首を捻る山崎の頭を、おれは思い切り盆で殴った。
暫くはいつくばった山崎はダメージから立ち直ると、盆を拾って茶棚から湯飲みと急須を取りだした。ポットからジャコジャコとお湯を汲む。
「まあ戻ったからいいです、終わり良ければ全てよしです」
湯のみを卓上に並べる山崎の頬も、よく見れば若干こけている。どうやらおれがああなっているあいだ色々気苦労をかけたらしい。ばつがわるいのでねぎらいの言葉なんかかけてやらないが、近いうち秘蔵のマヨネーズドロップスを一缶ぐらい分けてやろうかと思う。

「結局、原因不明か」
先日出したばかりのこたつにつっぷして原田があくびをする。
「あの願いをかなえる天人ってのもなぁ。疑わしいもんだよな」
こたつの反対側では与太話ばかりを扱った週刊誌をめくりながら、永倉がぼやく。なんでもおれがおかしくなったのと期を同じくして話題になったらしく、近藤さんは当時の自分の気持ちとの因果関係を信じ込んでしまっているが、そもそも本当にそいつらが願いをかなえる力を持っているかどうかから怪しいものだ。
おれの記憶がおかしくなったり寝込んだりしているうちに、その件はテレビでも殆ど報道されなくなってしまっていた。一週間遅れで話題にしているこの週刊誌の記事だって、見出しばっかり大きくレポートは少なく、まともな検証にはなっていない。
「偽薬効果ってあるでしょ。ほんとはみんな気のせいかもしれない。単なる偶然か、それとも何がしかの力が働いた奇跡かなんて、そんなの誰にも確かめようがないですから」
山崎が急須を片付けながら、もっともらしいことを言う。
「あの天人にとっちゃ、ガセだろうがそう言っときゃ勝手に恩に着てくれるんだから、安いもんかもしれないな」
「あ、これチャックじゃね?」
原田がヒトデ型の天人の背中を指差すのでみんなで覗き込んだが、白黒の解像度の低い写真では印刷の汚れと区別がつかなかった。

近藤さんはおれの一連の異常をすっかり自分のせいだと思っているようで、おれが目覚めたとき平身低頭で数日の顛末を聞かせてくれた。総悟が発破をかけてくれたことも。目覚める直前、なにか薄ぼんやり嬉しいことがあったような記憶があるのだけれど、そこを問い詰めたらもごもごと言葉を濁されたので、きっとその記憶は正しいのだろう。詳しく思い出せないのが勿体無い。

おれは近藤さんがそんなふうに思っていたことよりも、たとえ何かの力が働いていたとしても、そんなことぐらいで彼のことを忘れた自分の脳味噌に腹が立った。この腑抜けめ、と自分の頭をどつきたい。

先ほどからテレビの前で寝そべりサンデーを読んでいる栗色の頭に呼びかける。
「総悟」
呼べばぴくりとつむじが揺れ、振り仰いだ顔はぶすっとしていた。おれのために指一本動かしたくないこいつが、近藤さんにおれの気持ちを代弁するなんざ本意じゃなかっただろう。
傍に膝をついて、ぽんと頭に掌を乗せる。おれはできるだけ柔らかい声で言った。
「ありがとな、」
総悟はおれの手をひょいと払って、サンデーに視線を戻した。
「なんでぇ、気持ちわりぃ」

きっと、こいつにだって他人事じゃなかったんだろう。



縁側にひとり座っている近藤さんを見つけたので、その背中に近づいていく。
近藤さんは足音に振り向いて、おれを認めるとふと表情を曇らせた。

「トシ、」
遠慮がちにおれを呼び、おれがかれの名前で応えるまで伺っている。まだ捨てられる犬みたいに不安そうな顔で、その様子が可愛いくて、頭のてっぺんのあたりがじわりと痺れた。
「近藤さん、」
おれはそっと口に乗せる。自分がこの名前を忘れていただなんて信じられない。忘れても息ができていたことが信じられない。

俺が呼ぶのを聞いて、近藤さんがほっとした顔になる。腕をずいとのばされて素直に近づく。
向かいに座り込むとそのままぼすんと首筋に顔を埋め、スカーフに染みついた近藤さんの匂いをかぐ。零したのか少し味噌汁のにおいもした。

「ごめんな、」
痛切な響きに、おれは前髪を擦りつけるように首を振った。
「もう謝んなよ。あんたのせいだったのかもわからないんだし」
「でも、そんなことを願ったこと自体、お前への」
言いづらそうに言葉が途切れる。目の前で喉仏が上下するのが見えた。
「裏切りだ」
おれは目を伏せて、その言葉を反復する。耳から入ったそれはじわりと溶けて、頭の思考する部分じゃないところに沁みこんで行く。

近藤さんの手がおれの顎を捉え、そっと上を向かされた。
「俺は、考え違いをしていた」
鼻先で視線が交わる。近藤さんの目には誰かを介錯する前のように憐れみと辛みが湛えられている。
「俺がしなきゃいけない覚悟は、お前を幸せにすることじゃなくて、お前を」
おれは伸びあがってキスをして、みなまで言わせなかった。前歯がぶつかってかちりと鳴る。
やんわり唇を離せば、豆鉄砲を食らったハトみたいな顔をする近藤さんに、おれはもどかしい気持ちでぐうと唸った。
「あんたはばかだな、まだわかんないの」
近藤さんの手を取ってぎこちなく握る。厚くてかさついていて体温が高い。
「差し出されたあんたの手に、おれが勝手にしがみついてるだけだ。あんたに責任なんかない。おれに後悔なんかない。おれの、確かな意思で、あんたを選んだんだ」

あんたの傍にいる限り、おれはどうなったって幸せなんだから。おれが願うのはただひとつだけ。
「手を、ふりほどかないでくれ」
苦しいのでも悲しいのでもなんでもなかったけれど喋っているうちに胸が詰まってきて、語尾は少し潰れてしまった。

近藤さんは右手をおれに握らせたまま、左手でおれを抱きすくめて、は、と大きく息を吐いた。身体に回された腕は痛いぐらいの力だった。密着した胸からよく知った鼓動と脈が伝わってくる。よく知っている、ということがおれの誇りのすべてだ。
「ああ、ああ」
うなじの向こうで何度も頷く、近藤さんの声は半分泣いたようにひずんでいて、表情は見えなかったけれどどんな顔をしているか想像ならついた。


ここが楽園じゃなかったらどこをそう呼ぶんだろう?




[了]

111022