となりはなにを・1



フローリングの床に裸の膝を滑らせる。畳んだ腿の裏がじとりと汗ばむのが忌々しい。喉からついて出る息を必死で殺す。頭がばかになりそうだ。
毎日毎日、おれはこうして壁に耳を寄せて、かすかな彼の息遣いを拾う。
女の演技じみた、甲高い喘ぎの下から、妙に浮き上がって聞こえる彼の声を必死で追いかける。リズムに合わせるように自分のそれを扱く。情けなくて、でも雪崩のように押し寄せる興奮に負けて力任せに弄る。
性欲は薄いほうだと思っていた。自慰だって週に一回するかしないか。そんな程度だった。こんな、身体の奥からつきあげるような情欲を感じたことなんて初めてで、自分で自分の身体にうろたえる。

隣に彼が越してきたのは半月ほど前。
年齢はおれと同じぐらい、背は高くがっしりとした体形に乗った筋肉は見事で、隆々とした上腕とタンクトップの上からでもよくわかる胸筋の盛り上がり。彫りの深い精悍な顔、顎には刈り込まれたひげが蓄えられている。隣町のジムでスポーツのインストラクターをやっているのだと聞いた。
気さくに話しかけてくれるのに、おれはぼうっとなってしまってろくに受け答えもできなかった。生活時間帯も違うから、あれ以来ろくに顔を合わせてもいないのに、こうやって毎晩、彼の声に耳をそばだてている。

あの身体が女の上に覆いかぶさって、あのひとの杭みたいなそれが女の身体を揺すっているのだと、思えばいくらも持たなかった。
「う、ッ、」

声を上げてしまいそうになって左手に歯を立てる。べたべたになった右の手のひらを呆然と感じる。腰はまだじんじんと疼いていて、全身が熱に浮かされたみたいになっている。
おかしい、こんなの。おれはいったい、どうなっちまったんだ?



「先輩、寝不足っすか」
隣のデスクの山崎に声をかけられ、おれは一瞥だけよこした。
「クマできてますよ、ここ」
へらへらした顔で目元を指差す。
山崎は二年年下の後輩で、同じシステム管理課に所属している。目端は利くしいいパシリになるが、たまにいらないところにまでずけずけつっこんでくるのが気に障る。うるせえ、と応えたところで、固い女の声がおれを呼んだ。

「ちょっと、土方君?」
声の主は志村課長。おれとはひとつしか違わないのに管理職におさまっている出世頭だ。彼女は不機嫌そうに眉を上げ、おれのデスクに近づいてくる。
「エヌエスエーの橋場さんから苦情の電話があったわ」
エヌエスエーというのは日芝アカウント、経理の下請けをやっているうちの小会社だ。同じ社内システムを使っているので管轄であるうちの課がサポートに応じている。午前中かかってきた質問の電話の件だろう。
「あれは、ただの操作ミスだったんで、エラーじゃないスから」
システムに非があるような言い方をするのでむっとして、操作のマニュアルだけ紹介して切った。
「エラーじゃなくたって最後までフォローしなきゃダメよ。関連会社だからって、そういう対応してたら信頼を損なうわ」
言い返せずにいると課長はわざとらしくため息をついた。
「土方君は仕事がおおざっぱなのよ。澄ました顔してるけど肝心なところで抜けてるし」
目を合わせずにすみません、と頭を下げる。志村課長は仕事は出来るかもしれないがとにかくキツい。面倒見がいいとか男気があるなどというやつもいるが、おれの一番苦手なタイプの女だ。
「土方くんも顔ぐらい仕事が出来ればよかったのにね」
そんな捨て台詞を吐いて踵を返す。隣で笑いを堪えている山崎の椅子を思い切り蹴った。

「てめ、喧嘩売ってんなら買うぞ」
「すみませんすみません、まあまあ、で、話は戻りますけど、」
山崎は腰を低くしてぺこぺこ謝ると、しれっとした顔で話を変えた。
「寝不足の原因。ここ半月ぐらいですよね?」
時期まで図星を指されて、苦々しく思いながらも重い口を開いた。
「隣に越してきたやつが、」
「隣の人が?」
言うんじゃなかった、と早くも後悔に駆られながら、おれは早口で続けた。
「毎晩女連れ込んでて、すげえ気になって」
「ははぁ……」
ご愁傷様です、と山崎は神妙に頷いた。
「確かにそりゃ独り身には辛いっすねー。先輩モテるわりに長続きしないっすもんね、いつも」
面白くはないが山崎の言っていることは本当だ。女受けする外見のせいか積極的にアタックはされるものの、だいたいお互いの温度差で長続きしないのが常で。
会社の女にも一度押し切られて付き合ったことがあるが、おれのテンションの低さに最後は罵詈雑言を浴びせられて散々だった。
別れた後はこのフロアの女どもにあることないこと悪口を流しやがって、社内の女性陣からの評判は地に落ちた。
勝手に言い寄ってきたのは向こうで、こちらは相手をしてやったのに理不尽だと思う。どんどん女性不信が増すばかりだ。


「なるほど遅くまでアンアンやられて寝不足ってわけ」
あけすけな物言いに眉をひそめつつも、軽く頷くと山崎はケラケラ笑った。
「こっちも対抗したらどうすかね?」
「対抗?」
「そう対抗。俺にも彼女いるぜアピールで女物の下着干したり」
思わずがたんと席を立った。すみません、と身体を強張らす山崎に、おれは低く尋ねた。
「そうしたら気になるか」
「へ?」
「隣に女物の下着干してあったら、気になるか?」
「は、はぁ、まあ、そりゃ」
鼓動が早くなってくる。そんなことで彼の気を引けるのなら安いものだ。

「あれ、え、先輩?」
山崎が訝しげな声を出すのも気にせずデスクに向かい、おれはインターネットのブラウザを立ち上げた。




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