外の空気は酷く冷たかった。十歩も歩けば芯まで冷える。おれはマフラーの前を乱暴に合わせて、身を抱くようにしっかり腕を組んだ。自然早足になるけれど、近藤さんの足音も合わせてぴたりと後ろについてくる。 ふいに近藤さんの手が、おれの袂に伸びた。肘の下に布越しで、微かに感じる近藤さんの体温に意識が持っていかれる。 「まだ怒ってる?」 ちょっとふてたような声が聞く。おれの機嫌が悪いことぐらいこのひとにわからないわけがない、ひどい愚問だ。毒づいてやりたかったけれどうまい答えは思いつかなかった。それより袂を握る近藤さんの手が離れてしまわないかが気になって仕方がない。おれは唸った。 「もう、謝ったろ」 「うん。それは聞いたけどさ。トシの気が済んでなきゃ」 「は、」 おれは吐き捨てるように笑った。おれの気が済む、だって?よく言ったもんだ。第一にこのひとはおれが何で怒ってたかをちゃんと判ってるんだろうか?ここでまた今回の喧嘩の発端の、同じ質問をしたら同じ答えが返ってくるくせに。そうは思ったけれど、けれど今それを穿り返して揉めたら一緒に屯所に帰れなくなる。そう思ったら悪態は喉の下で止まってしまった。 酔っ払いの一団とすれ違いざま、近藤さんの手が袂から離れた。ぎくりとして視線だけで振り向けば、近藤さんは人波に流されそうになっていた。わわ、とか言いながら駆け足で距離を詰めて、おれの横にぴたりと並ぶと、耳元で言った。 「ねえトシ、知ってる?」 目を合わせてたまるものかと、進行方向にに視線を戻して睨む。 「俺が意地悪するのは世界でお前だけだよ」 吹き込まれた鼓膜から、焼けて爛れてしまいそうな錯覚がする。熱い。 そんなふうに優しい声を出すな。ひどい言われようだと、頭ではわかっているのに体が先走って悦ぶ。ここが往来だなんてどうでもよくなって泣きわめいてしまいそうになる。 睨んだけばけばしい色のネオンが潤む。立ち止まったら座り込んでしまいそうで、歩みは緩めない。 いつだってあんたを、欲しがって欲しがって欲しがって、全力でそうしたってあんたが全部くれないことに、いつまでたっても慣れない。 いくら疲れても投げだせない。投げ出して、誰かがおれの代わりにこのひとの隣に入り込まれたらたまらないから。 このひと与える気まぐれなやさしさに、縋って、もっとと喘いで、その都度誤魔化されて。そうしてもうどれだけの時間が経っただろう。 おれはほんとに、ばかみたいだ。 間もなく繁華街が終わり、コンビニの角を曲がれば、急に人通りが少なくなる。屯所まではあと十五分程度、住宅街には素っ気のない街灯が点々と続いている。 あれきり黙っていた近藤さんが、ふと口を開いた。 「星」 指差された先を反射的に見上げる。 「冬の大三角。綺麗に見えるもんだな」 ホラ、あれ、オリオン座。瞬けば彼の言うとおり、スモッグだらけの都会でも、冬の空にはちらほら星が見えた。 おれと並んで歩きながら、星なんかに気をやっていたことが無性に悔しい。 あんたといるときは、耳も目も感覚もみんなあんたに捧げられて、他のことなんか霞がかって遠くなる。なんであんたは星なんか見る。おれの方を、おれの方だけ見てればいいのに。 押し黙っているおれをどう思ったのか、近藤さんは子供をあやすみたいに、ふ、と笑った。 「ねえ、俺がいなくて、寂しかった?」 おれは唇を強く噛んだ。絶対に寂しかったなんて言ってやるもんか。もう何に虚勢を張っているのだか、自分でもわからなくなってきたけれど最後の意地だ。 近藤さんはおれの返事を長くは待たず、さらりと続けた。 「俺は寂しかったぜ」 言われてぎしと足が止まった。茫然として見上げれば二歩先で近藤さんも立ち止まり、こちらを振り返る。近藤さんの目はふざけているときのものじゃなかった。 「夜さ、寝てるだろ。夜中に目が覚めて寝ぼけて、トシ、って呼ぶんだけど、返事返ってこないの。あれー、って思って、」 「ね、お願い」 近藤さんの声は甘くて、こめかみがきりきりしてくる。 「トシ、ってゆったら、届くところにいてよ」 ああ、だめだ。ちゃちな意地や強がりで太刀打ちできるわけがない。 一時だってこのひとと離れていたくない。おれを呼ぶこのひとの声を、一度だって聞き漏らしたくない。 差し出された手に、反射的に手を重ねる。取られた手は近藤さんの口元に持っていかれた。 小指にそっと触れた、近藤さんの唇が熱い。 ばかになってしまった頭で、まるでプロポーズみたいだ、と思う。街灯はスポットライトで、おれたちしかこの世にいないような錯覚に、今はずっと酔っていたい。 (了) 110130 |