やさしい悪夢・7


「…れが、やるか、」
しわがれたそれが、自分の喉から漏れているのだと、随分遅れて知った。網膜に光が刺すみたいに眩しい。

「近藤さん!」
悲鳴みたいな総悟の声が頭に響く。うるせえ。叫ぶな。てめえ今なんて言ったよ。
「てめえなんぞに、わたさねえ、」
低く毒づけば総悟は、さも楽しそうに白い歯を見せて笑った。そうでなくちゃ、とかなんとか聞こえたけれども文脈が読めない。喧嘩なら買うぞ。

まもなく総悟の後ろに駆け寄ってきた近藤さんが見える。
「土方さんが喋りました、今」
「本当か!」
総悟に代わり、視界に大映りになる近藤さんの顔。
「トシ、トシ、わかるか!」
どうしたんだ、眉間に皺なんか寄せちゃって。
「俺の名前、わかるか」
このひとは何を言っているんだか。朦朧とした頭で、おれは浅い息の下から、どうにか近藤さんの名前を呼んだ。
土の匂いでむせ返るようで、呼吸をするにも酷く苦しかった。首から下の感覚が覚束ず、身動きが取れない。今自分はどういう状況にあるのか判然としない。だるさで口も頭も回らない。

ざわざわと人の気配が集まってきたところで、さらに意識が途切れ途切れになった。覚醒はしているのだけど熱に浮かされたような、変な浮遊感がずっとおれを包んでいる。
ぎりぎりと鋸が引かれるような妙な音、たくさんの人間の話し声、ひときわ大きな歓声が聞こえたと思ったら、途端に体が軽くなったような錯覚がして、

おれはそこで意識を手放した。
最後に見たのは泣き笑いの近藤さんの顔、抱擁、腕が、温かい、感触。






重いまぶたを開ける。何度も瞬けばようやく見慣れた天井が像を結んだ。日は翳って薄暗い。もしくは明け方なのかもしれない。
五感が自分のものじゃないみたいに遠い。いくばくか遅れて、自分が長い夢を見ていたことに思い至る。
長い、長い夢だった。内容をよく覚えていないけれどいい夢だったことだけは確かだ。おれは満たされていた。目覚めようと思えないほど。それでも、こうして現実に帰ってこれて、どこかおれはほっとしている。

不意に体の末端に鈍痛を感じて、視線をぐるりと向けた。おれの左手を握った近藤さんが言う。
「起きたか」
腹に力が入らない。ああ、と返事をするのも億劫で、おれは小さく頷いた。
逆光で表情はわからない。頬の辺りに光るものが見えて、目を凝らす。近藤さんは無言で泣いていた。
おれはぎょっとして起き上がった。体のあちこちが軋んで一苦労だったけれどどうにか視線を近藤さんと同じところまで持ってきて、それでも近藤さんがこんなふうに泣くのをはじめて見たので、どこに手をかけてやればいいものかうろたえた。
「よかった、」
近藤さんは感極まったようにそれだけ言って、また歯を食いしばってしまう。
近藤さんの背中を撫で、途切れ途切れに言うせりふを、おれは辛抱強く聞く。
そこではじめておれは、自分が何に巻き込まれていたかを、そしてもう少しで命が危なかったことを知った。
背中に置いた手で着物を掴むと、あっけなく体はこちらに崩れ、おれの背をかき抱いた近藤さんは、いっそう鼻をすすり上げた。
おれの肩に顔を埋めてもごもごと、不明瞭な声が言う。
「トシ、夢の中の俺は、お前になにをしてやれてた」
よく覚えていない。そうかぶりを振れば、
「なんか言ってたか」
と続く。
「なんかって、何」
「愛してるとか、お前だけだとか、」
そんな言葉を羅列されて、おれはひゅ、と息を呑む。無意識に心臓が跳ねてしまう。冗談だって嬉しいからやめてくれ。
「よせよ、」
おれは首を振った。わかんねえ。でも言ったのかもしれない。だから夢から目覚めようと思わなかったのかもしれない。
「そんなんでいいなら、」
近藤さんは息を詰まらせた。咽て、荒い呼吸の下から喘ぐ。
「そんなん、お前が帰ってくるならいくらだって言う。いくらでも言うよ」
近藤さんの頬を、新しい涙がまたぼろぼろと伝う。
「お前のために惜しいことなんかなんにもねえよ、なあ」
子供みたいにかぶりを振る、真っ赤になった頬、泣きすぎて腫れた目元を、おれは見ていられなくて手で覆った。

「ごめん、近藤さん、ごめんな」
ごめん、自分の声がみっともなく裏返るのを堪えられない。

本物の近藤さんがいい。おれひとすじじゃなくっても、ちゃらんぽらんでいい加減でも、おれで顔中ぐしゃぐしゃにして泣いてくれる近藤さんがいい。
あんたから快と楽だけが欲しいんじゃないんだ。あんたが寄越すなら苦だって痛だって、なんだって欲しい。なんだって貰う、だから。

近藤さんが顔を寄せてきて、歯がぶつかるような乱暴なキスをした。キスはしょっぱかった。近藤さんの顔は涙や鼻水まみれで、きったねえ、と言ったら、トシだって、と口を尖らせるので、
それで二人して笑った。






助かったら助かったで、おれを待っていたのは動けない間にたまった仕事だった。隊長連中もおれから振り分けられていた業務をそれぞれご丁寧に戻しに来るものだから、書類の束が机に塀を作っている。
よかったよかったと肩を叩いて帰るところを見ると、まあ心配してくれていたのかとも思うけれど、それならそれで最後まで労わりやがれってんだ。

一週間は安静にと医者に言われてデスクワークに徹しているが、正直終わる気がしない。
ぶつぶつ言いながらパソコンの画面と書類を見比べていると、近藤さんが下処理の終わったものをこちらへ渡して言った。
「あんまり根つめんなよ」
具合が悪くなったら寝ろ、としきっぱなしの布団を指差す。
近藤さんは空いた時間を見つけてはずっとおれの部屋に詰めて、こうして仕事を手伝ってくれている。

「今日もいかねえの」
つとめてなんでもないように聞けば、また次の書類とにらみ合いながら答える。
「ん」
近藤さんは昨日もおとといも、これで三日もあの女のところへ行っていない。いつもならオタエサン切れとか、そうじゃなければ別のキャバ嬢漁りに行くか、とっつぁんといかがわしい店につるむとか、なんだかんだで夜遊びに出かけているところなのに。

「トシが、どこにもいかないって、わかるまでいかない」
「なんだそりゃ」
わかったらまた行くのかよ。そう嫌味を言ったら、近藤さんの右手からばさりと書類が離れた。
頬杖をついた近藤さんは、少し神妙な表情でおれを見る。
「いつだって、お前が隣にいるって保証がなけりゃ、俺は何にもできねえんだぜ、」
真意をうまく図れずにおれが瞬くと、近藤さんは勢いよくこちらに上体を傾ける。反射的に体を引いたおれの顎に手を伸ばして、引き寄せられたと思ったら額にキスが降ってきた。





(了)
101017