やさしい悪夢・1


報告書を読み上げる山崎の声を、あくびをひとつしながら聞く。
ここのところは攘夷派にも目立った動きはないし、出動にしてもちゃちな強盗だのデモのお守りだので、至って平和なものだ。
おれは濡れ縁のほうへとぼんやり目をやった。うらうらと春の日差しが差し込んでいて、鶯の鳴き声なんかも聞こえる。ちらほら桜も咲き始め、そろそろあのひとが花見だなんだのと言い出す頃合だ。

書面を畳むと、山崎は首をこきりと鳴らした。
「えっと、それから、」
まあいいかこれは、とごにょごにょ言葉を濁すものだから、いらっとしておれは先を促した。
「なんだ、ちゃんと言いやがれ」
「いや、市井の噂なんですけどね、飽くまで」
「噂?」
山崎は咳払いを一つすると、少し小さな声で言った。

「本所のほうで、人食い桜が出るっていうんです」
「人食い桜だぁ?」
またセンスのねえネーミングだこと。おれは鼻で笑い飛ばす。
おばけは怖いが妖怪の類なら怖くない。第一本所の七不思議だったら椎のはずだ。
「食われてるところを誰か見たのか」
「それがですね、こう、体が半分木に埋まってしまっているのを見たっていう目撃談があるんです」
山崎は自分の胸から下を指差しながら言う。へえ。
「まあ酔っ払いの言うことなんで信憑性は低いんですけど、毎年この時期に、かれこれ何人かがいなくなってるんですよあの周辺で」
「捜索願は」
「出てます。ただ、それぞれ借金だの家庭不和だの事情はあるらしく」
「なるほど、失踪するだけの理由はあるってのか」
「事件性は低いと、所轄の奉行所でもあんまり本腰は入れてないみたいで」
そりゃあそうだ、オカルトじみた噂一つで動けるほどヒマはしていない。それにあの界隈は桜だけで何本あるかわからない。第一被疑者が桜なんて聞いたこともない。
「怪談話なら夏までとっとけ」
紫煙とともにそう吐けば、はあい、と山崎は頭をかいた。





かったるい式典に付き合わされた帰りのリムジン、後部座席でとっつぁんがにやりと笑った。
「近藤、この後行くか、コレ」
一杯ひっかけるジェスチャーをされて、近藤さんの目がキラキラ輝きだす。
「すなっくへぶんにかっわいー娘の新入り入ったんだぜぇ」
「まじで!でもとっつぁんの趣味だかんなぁ」
きゃっきゃとはしゃぐ近藤さんはそう言いつつも明らかに乗り気で、助手席からバックミラー越しに睨みつけたが気付きもしやがらねえ。
「おれは帰るぞ近藤さん」
「なんだトシィ、付き合い悪ィなぁ」
とっつぁんのねちっこい口調がムカつく。上司でなかったらぶったぎってるところだ。
「ここで車止めろ、おれは歩いて帰る」
シートベルトを外して運転手を促す。運転手はおれととっつぁんを交互にちらちら見比べる。
「止めろ!」
ドスの効いた声を出すと、運転手の肩がびくりと震えて、車は程なく減速して路肩に止まった。


頭に上った血がなかなか降りてきてくれない。おれは通行人に肩がぶつかるのも構わず大またで歩いた。
イライラする。いつまで経っても慣れない。あのひとが女のことを喋ってるだけで吐き気がする。バカじゃねえの。どうせやにさがっておべっか使って裸に剥かれて帰ってくるんだろ。
なんでおれがいるのに女がいるんだ。問い詰めてもいつだってはぐらかされて、抱かれればおれが何にも言えなくなるのをわかって誤魔化して、あのひとはずるい。
おれだけこんなに好きだなんて不公平だ。悔しい。
ふと顔を上げたら両国橋が遠くに見えて、はたと足が止まる。
下ろされたのは赤坂のあたりだったと思うが、怒りに任せて歩いていたら方向音痴のおれは神田川に沿って全く逆方向へ歩いてしまっていたらしい。ここに至ってようやく気がついた。

時刻はちょうど宵闇が迫るころ、四月にしては生ぬるい風がびゅうと吹き抜け、どこか甘いような匂いが鼻先をくすぐる。
「そういえば、この界隈」
山崎が昨日持ってきた怪談のことを思い出して、時間帯のせいもあって背筋が伸びる。袖からぞくりと立ち上ってきた鳥肌を隠すようにさすって、おれは早足で屯所へと道を引き返そうとした、その瞬間。
「トシ」

路地の向こうから細く呼ぶ声を、俺の耳が捉えた。
「こ、んどう、さん?」
「トシ、」
今度はもっとはっきりと聞こえた。俺が聞き間違えるはずもない。

桜の花びらがいざなうように、風に乗って漂ってくる。
細道に入り込んでいくとその先は開けていて、小さな公園のようなスペースになっていた。こんな街中に珍しい。そして桜が視界を覆うようにいっぱいに枝を広げている。
近藤さんは桜の下で微笑んでいた。花灯りでいつもよりも柔らかに見えた。
よろよろと吸い寄せられるように足は進む。

「なにやってんだ、こんなとこで。」
あんた、とっつぁんとキャバに行ったんじゃ。喉を鳴らしてそう言えば、近藤さんは歯を見せて、おれに腕をまっすぐ伸ばした。
「おいで」
手を取られたかと思うと、近藤さんはおれの体を抱き寄せた。力強い抱擁に息が竦む。
路地裏とはいえこんなところで、隊服同士で、誰かに見られたら。そんなことが頭の隅を過ぎったが、この腕に抗えるわけもない。あたたかな近藤さんの体温、おれが何より望むもの。ほう、と吐いたため息に、近藤さんは優しく語りかける。
「なあトシよ、俺は随分とお前に、不義理を働いていたな」
なにを言っているのだろう、このひとは。額を擦り付けるようにすると、近藤さんの声は甘く続いた。
「俺はいい加減にわかったんだ、何よりお前を大事にしなきゃいけないって」
せりふはじわりと頭にしみこんでいく。蜜のようなそれをうっとりと味わっておれは聞き返した。
「うん?」
「もうキャバなんか行かねえ、お前だけを見てる。傍を片時も離さねえ」

言葉が鼓膜から脳に届くに至って、おれは顔を上げた。
「……なんだって、」
近藤さんの目の色は至って真剣で、嘘をいう時の目ではない。それでも口はわなないた。
「嘘、」
「嘘じゃねえ」
近藤さんはおれの手をふと取ると、誓うように口付けた。

「トシ、愛してるよ」


おれは足元が崩れて、溶けてしまうかと、
思う。





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