やさしいさいみんじゅつ(前編)



「犬だッ、お前は犬だ!」

通りすがりになんだか不穏なせりふが聞こえたので、俺は訝しく思って部屋を覗いた。
休憩室には向かい合う総悟と山崎。総悟の手からは五円玉が糸でぶら下がっている。
「…はぁ」
山崎は、もういいですか、とうんざりした声を出して、繕い物を引き寄せる。
「おっかしいなぁ」
総悟はぼりぼりと頭をかきながら傍らの本を手に取った。

「…なにしてんの」
脱力しながら戸を引いて踏み込む。
総悟の持つ本の背表紙には、やさしいさいみんじゅつ、とあった。ほんと碌なもんに興味持たないんだからこのこは。
ふたりは俺に一瞥をくれたが、すぐに手元に視線を戻す。総悟は文面を読み上げる。
「一、思い込みの激しい者を狙うべし。一、プライドの高い者を狙うべし。一、激情型の者を狙うべし。」
「…まあその条件だとおれじゃかからないですね」
かがり縫いをする運針に集中したまま、山崎が無感動に言う。
「誰かいねーかなぁ、適任」
総悟が本を持ったまま伸びをするのと同時に、俺の背中のほうから棘のある声が飛んできた。
「てめーら油売ってんじゃねーぞ」

俺の脇から割り込むようにして入ってきたトシに、総悟の頬がばら色に高潮する。鴨がネギ。考えてることなんか顔に書いてある。俺と山崎は渋い顔を見合わせる。
「土方さん土方さん。ちょっとちょっとこっち」
「なんだよ。お前みたいにヒマじゃねえんだよ」
「恋の!成就する!おまじない!なんですがねィ」
文節を強調するように区切られ、トシは目にも留まらぬ速さで総悟の前に正座した。


ぶらぶらと鼻先で五円玉を揺らす。
「はーい、よく見てね〜。見てるうちにだんだん頭がぼうっとしてくるね」
胡散臭い中国人のようなしゃべり方。トシの視線は従順に動き、だんだんととろんとした表情になってきた。
「どんどん降りる。降りるよー。はーい、あなたは今自分のいちばん底にいます」
五円玉の震動が次第に減速し、ぶれがなくなった頃にはトシの顔つきからは完全に険しさが消えていた。
「さて」
ふいと五円玉をしまい、代わりに胸ポケットから二枚写真を取り出すとトシの前に並べる。ちょっと覗けば俺とお妙さんの写真だ。あっ、いいなあのスナップ。俺持ってない。総悟のやつあんなのどこで撮ってきたんだ。
何を始めるかと思ったら、総悟は交互に指をさしはじめた。
「こっちが近藤さんで、こっちが志村の姐御でさ。いいですか、こっちが近藤さんでこっちが志村の姐御」
お妙さんの写真を俺と、俺の写真をお妙さんと言いながら、暫く繰り返して、
「ハイッ」
ぱん、と高らかに手を叩く。
なんつうことを。と思ったが、さすがにこんなのにひっかかるほど人間は単純じゃあるまい。
「かかった?土方さぁん」
おどけて肩を叩いた俺にくるりと振り向くと、目をきりと眇めた。
「なんで貴様がこんなところにいる」
「へ、へ」
「胸糞悪ィ。ここは一般人立ち入り禁止だ!出て行け」
鞘に入った刀をぶんまわされて飛びのく。口をあんぐりさせていれば、刀を腰に戻し、舌を鳴らして総悟に尋ねた。
「総悟。近藤さんはどこだ」
「志村邸じゃないですかねィ」
さも面白そうに総悟が応える。
「なんだと。この女がここにいるのにか。」
トシは、しかたねえ、迎えに行くか。とぶつくさ云いながら大またで歩き出した。


近づくと色々難儀そうだったので、十分距離をとってトシのあとを尾行する。
トシは志村邸まで来るとドアベルも鳴らさずにずかずか敷地に入り込み、勝手知ったる足取りで縁側まで回った。人のこたいえないけど、もうちょっと遠慮ってもんがあってもいいと思うんだけど。よそのお宅なんだから。
茶の間ではお妙さんと新八くんが対面でお茶を飲んでいた。トシに気づくと、新八くんが「土方さん?」と声をかける。

呼びかけには応えず、トシはブーツをぽいぽい脱いで縁側に膝をかけた。
「近藤さん、またここか」
そう言いながら膝立ちでにじり寄るのに、お妙さんの笑顔がぴたりと固まる。
「茶なんか飲んじまって。早く帰ろうぜ」
白魚のような手を無造作に掴む。ひーなんてことを。新八くんの顔も俺と同じくこわばっている。
「近藤さん?ですって?」
お妙さんの口元がひくりとひきつった。トシは平然として手を離そうともしない。
「あんたのことだよ。何ねぼけてんだ」
するりと掴まれた手を抜くと、
「どうしたのかしらこのひと。マヨのやりすぎでおかしくなっちゃったの」
ゴリラと間違うなんて失礼にもほどがあるわ、とボキボキ指を鳴らす。俺は限界を感じて、慌てて物陰から飛び出した。
「あっすみませんお妙さん、なんかこいつ、総悟のいたずらで催眠術にかかっちゃって」
俺のほうへ剣呑な視線が流れてくる。睨まれてアワワと口を覆えば、迫力のある声が聞き返してきた。
「催眠術?」
「は、はい、俺と、お妙さんを、取り違えてるみたいで……」
皆まで言わないうちにグーパンが飛んできて、俺は五メートルばかりうしろにぶっとんだ。
「何はた迷惑なことさしとんじゃおんどりゃあ!」
ああ今日も切符のいい啖呵、パンチにもキレがあるゥ。地面に這いつくばりながら涙目で見上げる。
「近藤さん?」
驚いて中腰になったトシが、女殴るなんて珍しい、でも男らしい…とキラキラした目をお妙さんに向けている。どんだけ倒錯してんのこいつ。

そんな反応に毒気を抜かれたようにぱんぱんと膝を払って座布団に座り、お妙さんはトシに問いかけた。
「私が近藤さんに見えるんですって?」
「見えいでか」
「じゃああっちは?」
お妙さんが俺を指差すと、トシはこちらに一瞥だけくれて
「お妙。」
と低く答える。場にいやな沈黙が走る。お妙さんの目さっきからずっと笑ってない。こわい。

静寂を破ったのはトシだった。
「なあ、屯所に帰ろうぜ。じき夕飯だ」
ちょっと甘えたような声音を出されて、お妙さんは毒気を抜かれたように首を振った。
「帰るも何も、ここが私の家ですから」
「んなわけねーだろ。あんま寝言云うと怒るぞ」
てこでも動きそうにないトシに、何を云ってもムダだと悟ったのか、お妙さんは俺に氷のようなまなざしをよこした。
「すみません、ほんとすみません」
俺とお妙さんのやり取りは聞こえていないのか、聞こえていても頭に入っていないのか、トシはため息をつくとどっかりあぐらをかいた。
「しょうがねえ、あんたが帰らねえなら俺も今日はここに泊まるぜ」




091220