(壱)うずみび


こんなにむごいものかと思う。おれは呆然とする。


全身に走った緊張は衝撃にも似て、脳天がびりびりと揺すられるような錯覚に陥る。
おれは目を離せず後ずさりをし、二歩引いたところでぎこちなくきびすを返した。

もつれるような足取りが忌々しい。発作のような鼓動に追い立てられてその場を遠ざかる。道場裏の、木戸のところまで来て咳き込んだ。なんで、こんなことで。馬鹿馬鹿しい。思えば思うほど情けなさに視界が潤む。

動揺をもてあまして身を屈める。自分の影に視線を落として、瞼の裏に焦げ付く先ほどの光景をかき消してしまおうと躍起になる。
近藤さんが門前で女と喋っていた、それだけのことだ。ただそれだけ。
近藤さんはおれには決して向けないようなやに下がった笑い方で、それでも目元がほころんで、頬が上気して、慈しむような視線だった。あれはおれには注がれないものだ。おれには決して、おれにはついぞ。

息を大きく呑む。ひゅう、と変な音が喉で鳴る。
頭がおかしくなってしまうと思った。こんな炎の塊みたいなものが自分の中にあるだなんて知りたくもなかった。
子供のころどこかで見た、般若の顔を思い出す。あああれが、あんなものがおれのなかにも棲んでいるのだ。



努めて長く深呼吸をすれば、息が漸く戻ってくる。
体勢を戻すと足元がよろけ、肩甲骨のあたりになにかがぶつかった。
「きゃ」
丸くした目をこちらへ向けるのはミツバだった。
「……すまん」
身体を一歩退いて謝った。差し入れでもしにきたのか、手には風呂敷包みを抱えている。
「十四郎さん、顔が真っ青よ」
ミツバは懐から手ぬぐいを出してよこす。おれはそれを辞してなんでもない、と頭を振る。垣根に後ろ手を突くようではごまかしきれなかったらしく、ミツバは遠慮がちに背中を撫でてきた。手は柔らかく、ほの温かくてほっとする。
ミツバからは汗も血も泥の匂いもしない。美しく凛として懐の深い、彼女のことを好ましく思う。ミツバみたいな女と好き合い添い遂げれたらよかったのにと、おれの理性の正しいところで思う。
男は女に惹かれるように出来ている。そういうふうにできていると、おれはこの年まであたりまえのように信じてきて、だからおれが近藤さんに向けるこの感情がその類のものであると、随分長いこと気づかなかった。
今でも納得がいっているとは云いがたい。何なのだろう、おれをあのひとに強く強く結びつける引力は。有無を言わさない、暴力的ですらある。
もうずっと、墜落していくような錯覚にとらわれている。三半規管がきんとして、音も聞こえない。



ミツバから預かった煮物を勝手にいた婆に渡し、のれんをくぐる。
遠目でおれを見つけた近藤さんが、廊下の端から満面の笑みで、犬みたいに走り寄ってきた。

「なあトシ、聞いて聞いて」
おれの肩口に纏わりついて話すのは、またくだらない女のこと。
今日あんたが喋ってたやつなんかさせこで有名なやつだ。病気もらうのが関の山だとか、よく見ろ化粧でごまかしてるだけだとか、いくらでも言ってやりたかったけれど、口を開けば詰ってしまいそうで、おれは唇を噛んでうつむいた。
「そんでさ、おみっちゃんのね、お友達がお前と喋ってみたいんだって」
ほらみろ、利用されてるだけなんだ。このひとを橋渡しにおれとどうこうなろうなんて、そんな女はこっちから願い下げだっていうのに。
「興味ねえ」
「もったいねえなぁ、トシならよりどりみどりなのに」
「興味ねえって言ってんだろ」
苛立ちが顔にも出てしまっていたと思う。手を払えば、目元をふいと親指が掠めた。
「俺でも惚れ惚れしちまうぐらいだもの」
おれは苦々しく眉を寄せる。彼にきっと悪気なんてない。悪気が無い、ということはどれだけ罪深いのだろう。
近頃では二人でいるだけで胸が詰まる。時折このまま息が出来なくなってしまうのではないかと思う。
「なあ、」
肩をぐいと掴まれて顔を近づけられた。反射的に腰が逃げる。
「なんか最近トシ、俺のこと避けてない」
「んなことねえよ」
語尾は掠れてしまっていた。自意識過剰なんじゃねえの、と添えれば、ぷうと頬を膨らませる。フグそっくりだとからかってやりたかったけれど、ふざけた声は喉を通ってくれなかった。
「…やすみ、」
低く呟いて背中を見せる。一刻も早くこの場を逃げてしまいたかった。


部屋が余っているからと請われ、実家を出て以来風来坊同然だったおれは面倒半分、近藤さんのしつこさに負けてこの道場の離れを住処に決めた。
寝食を共にして接触が増えるうち、竹刀を交え、くだらない話を延々聞いてじゃれるうち、いつの間にかおれの中に余計な感情が芽生えてしまっていた。それはあれよという間に孵化し育って、もう今では手に負えないような怪物になっている。
こんなに近しいところに身を置くんじゃなかった、そう思っても後の祭りだ。

一度は殊勝にも迷惑をかけないようにと出て行ったのに、近藤さんはわざわざおれを呼び戻しに来た。
だからあんたが悪いんだと。みんな彼のせいにしてしまいたい。そうでもしないとやっていられない。

このごろは振り払うように剣の練習に励んで、くたくたになって床に就く。そうしないと変なことばかりを考えてしまう。
性欲はあまり強くない方だったのに、あのひとのことを考えただけで、阿呆みたいに気がやれる。

おれにはわかっている。これはもう愛だとか恋だとかそんなに生易しいものじゃない。
業だ。