ことばをわすれたカナリヤは、


食堂からの帰り、すっかり宵闇にまみれた廊下には、鈍く光る木目だけが延々と続いていた。
月もなく、乾いた風が鼻先を撫でていく。

宿舎棟に渡る角で、柱の影からこちらに手招きをする山崎に気づいて、俺は足を止めた。

「どうした」
きょろきょろと首を回し、周りに人気がないのを確かめてから、山崎は息を潜めた。
「、副長のことなんですけども」

トシはようやく包帯が取れて、ほぼ一月ぶりに勤務に戻った。
山崎ひとりを付けて、短めの巡回路を割り当ててやったのが今日のことだ。


「おかしいですよ、正直」
山崎は切迫した表情で、早口で話し始めた。
「元々お喋りなほうじゃなかったですけど、何言っても生返事なんです。どこか会話が噛み合わないし。それに、色んなものにぶつかるんです。人とか、よけき れないで」
自分の手首の辺りを指して、言い募る。
「袖口からちらって見えたんですけど、痣だらけなんです。反射神経なんて人一倍いいはずなのに…あのままじゃ戦闘なんて出来やしないでしょう」

「…そうか」
「病院行った方がいいです、絶対。近しいひとをなくしてショックなのはわかりますけど、もし後を引くようなら専門家のケアを…」

おれは曖昧に笑って見せた、つもりだった。
けれど山崎がとびきり訝しげな顔をこちらに向けたので、

きっとおれは酷い顔を、
それがどうしたんだという顔を、
していたのだと思う。

「わかった、暫く表に出さない方がいいな。デスクワークに回そう」

「、はい」
山崎はぎくしゃくした所作で会釈だけして、逃げるように背中を見せた。
俺はそれを見送りながら、不思議なほど冷え冷えとした気持ちでいた。


生憎だけれどトシはもう、元のトシには戻らないだろう。
彼がもう使い物にならなくなったところで、俺なら別に構いやしないのだ。




俺の部屋には既に灯りがついていた。
申し訳程度に桟を叩き、障子を引く。

彼は部屋の真ん中当たりに座り、呆けたように宙を見ている。
腿と脹ら脛をぺたりと畳につけて座る姿は、まるで子供のそれのようだ。


「トシ」
名前を呼ぶと、ゆっくりと振り返って、俺を見た。

「こんどう、さん」

舌足らずに俺の名前を呟く。
瞳には俺の像が結ばれ揺れているけれど、どこか夢を見ているような顔つきだった。

トシの様子が目に見えておかしくなって行くのを一番間近で見ていたのは、他の誰でもないこの俺だ。


畳に膝をつく。トシは緩慢な仕草で俺の着物の袂を掴んだ。
「こんどうさん」
「何だ」
赤い舌がちらと覗く。
「あれ、しよう」
仕方ねぇやつだ、と片頬で笑う。トシは意に介さず瞼を伏せた。
顔を寄せると唇が開く。


くふ、と子犬の鳴くような声に、征服欲が思う様煽られる。
中をくじり、甘く噛みながら身体にのしかかった。乱れた息が口の端から、唾液と共に漏れ出す。
着流しの前を肌蹴、齧り付くような乱暴な愛撫にも体はいちいち反応を返した。
胸のしこりをつまむと、ひゃ、と鼻にかかった声が抜ける。
「こうするのが好きか」
「すき、ぃ、…あ」
指先で押しつぶすようにいじると、悲鳴が混じる。
俺の袖を掴む手が強張ってひきつる。
擦れてすっかり赤くなったそこに、舌を当てて舐る。
前歯が掠るたびに背中が反るのが面白くて、俺はわざと歯を立てた。


「銜えたいか」
意地悪く耳元で問うと、上気した頬で幾度も頷いた。
ひとりでは体勢も変えられないほどぐったりした体を支え、顔を股座に導く。トシは両手でもどかしそうに下帯を探った。
赤黒い怒張を頬に当ててやる。びちりと音が鳴った。それだけで感極まってしまったらしく、うわ言のようにつぶやいた。
「…これ、ぇ」
震える舌を差し出し、むしゃぶりつく。懸命さはさておき拙い舌の動きは、屹立を絶頂には導かない。
「、う、…んふ、」
腰がゆらゆらと揺れている。いつのまにかトシの右手は尻のほうに回っていた。すっかり慣らされて性器と化したそこは、自分の指を銜えて物足りなさそうにぬ めった音を立てた。
「堪え性がないな」
詰るように云うと、更に興奮してしまうのか腰がひくりと跳ねた。

「んう、うー、」
目元を真っ赤に晴らし、段々と瞳がうつろになってくる。
歯が当たる回数が増えて敵わないので、俺はトシの髪を掴んで引き抜いた。ぞんざいな所作にも甘い喘ぎが上がる。

「や、」
トシの身体を膝の上に乗り上げさせた。よろけながらも俺の首に腕を回そうとする。
その片腕を取って、後ろに回し、窄まりに合わせた俺の男根に手を添えさせた。
トシは呼気を乱しながら、早く腰を落とそうと急くけれど、ぬるぬると滑ってうまく切っ先が入り口に揃わない。
もどかしく首を振り、俺のわき腹に回された膝が、瘧のようにがくがくと笑った。

漸く入り口を捉えたようで、少しずつ取り込まれ始める。おれは隧道のきつさに呻いた。柔らかく湿った内部が収斂して、ぷちぷちと水音が立つ。
雁首の所まで来ると、動きが止まった。
「どうした、もう降参か」
顔を伏せ、絶え絶えな息を紡ぐトシを揶揄する。あくあくと唇を開き、舌が犬のように突き出される。
唾液がつ、と銀糸を引くのに、俺は喉を鳴らした。一旦腰を引き、間髪入れずに腹の奥までねじ込む。
「あー、ーッ、」
長い悲鳴が上がる。衝撃を受け止めかねる体が慣れるのを待つこともなく、俺は腰を使い出した。
力任せに打ち付けると、内壁が絡みついては蠢く。
閉じることを忘れたような口の端からとめどなく涎が垂れ、唇がてらてらと光るのが、どこか性器を連想させて更に俺を昂ぶらせた。
「ここがいいのか」
「い、いッ、」
際まで抜き、打ち付ける。力の限り大きくグラインドさせる。
無茶な動きに、トシの声がどんどん拉げていく。
「ひゃ、あ、あ、」
腹の奥まで、ぐちゃぐちゃに抉るように突く。
獣じみた泣き声ごと唇で塞ぐ。
喉の奥からくぐもった悲鳴が漏れる。俺はトシの舌を手荒く吸った。






セックスは、暴力の延長線上にあった。

彼女が亡くなり初七日も過ぎ、傷が癒えても、トシは部屋から出ようとも、まともに口を聞こうともしなかった。
焦れた俺は殴って、何度殴っても目を合わさず声も上げないあいつに更に焦れて、組み伏し、犯した。

あいつは初めて怯えた悲鳴を上げて、それに俺はひどく満ちた気分になったのを憶えている。
腹に巻かれた包帯が汗と血で滲み、撓んで、
悲鳴が涙声になり、掠れ、潰れ、
それでも俺は容赦しなかった。
思考もなにもさせなかった。ただ身体を極限まで追いつめ、突き落とし、また追いつめて揺さぶった。そうするうち、雄弁に物語る身体と引き替えに、こいつは 言葉の殆どを失くしてしまった。

ひきつる腱と、哀れを乞う声と、唸りと熱しかない世界。
そこに追い込んで、戻って来れなくなればいいと思う、昏い衝動がずっと俺に取り憑いている。



焦点の合わない目で息を整えるトシは、顎を向こうにさらして喘いでいる。

俺は自分の膝に付いた畳の跡を撫でながら、時計の音を聞いていた。汗が肌で乾くのを見計らって着物を羽織る。それから胡座を崩し上体を傾けた。
そっと手を伸ばし、トシの目を掌で覆う。

「誰だ」

こうして俺は確かめる。
こいつがまだ俺の名前を覚えているかどうか。
「こんど、う、さん」
切れ切れに紡がれる、音を噛み締める。
「あたり」

そう云ってやると、トシはくすくす笑い出した。
その声音はただ無邪気で、かつての、こいつがあろうとしていたこいつ、の面影なんか微塵も感じられない。

あんまりに哀れだと思ったけれど、俺にはこいつを哀れむ資格なんかない。

このまま俺の名前以外、みんな忘れてしまえばいいと。
確かに俺は思っている。




首に回される腕に誘われて、トシの上に体重を預ける。
障子の向こう側を人影が掠めたのに気づいたけれど、俺は関せずトシの前髪を梳いた。 
軽い足音が廊下を渡っていく。

あの日から、頭は常に鉛のように、重苦しく軋んでいる。

自分が生み出す不幸の果てを想いながら、
俺はゆっくり微睡み始めた。