モルヒネ


振り上げた拳が重い肉を捉えて掠って抜けた。
 
二発目は角度が変わって、人差し指の関節に肉越しに段差が当たった。口の中を強か切っただろう。
馬乗りになった俺に、それでも頬を腫らしたこのひとは半分ひきつった笑いを浮かべている。赤く染まった歯がちらりと見えた。
何が。何がおかしい。おかしいことなんかなんにもないだろう。
バカじゃねぇの。あんたバカじゃねぇの。

俺は何かを口走っている。金切り声に近いそれで何かを口走っている。
血とか内臓とかとにかく腹の中のもの全てを絞り出してしまいたいのに喉から出るのは声だけで、俺は、俺は、
違う。こんなことを云いたいんじゃない。


三発目を振り上げたところで身体が思い切り引っ張られて後ろに倒れ込む。
腕が動かないと思ったら羽交い締めにされている。離せ。殴れない。
咎めるような声が四方八方から俺の名前を呼ぶ。声は朦朧とした意識の中で不快な粘度になって俺の腕や足や舌を絡め取っていく。忌々しい。離せ。

バカは俺だ。
なんで俺がこのひとを傷つけなくちゃならないんだ。
バカやろう、バカやろう、バカやろう。
咆吼は咆吼にならずに空気だけひゅうひゅうと鳴った。喉がギリギリと痛む。

だってどうやったってあんたは手に入らないんだ







靴だか裸足だかわからない、けれど足裏を支える地面は柔らかくて酷く頼りない。俺の体重でずぶりとめり込む。泥濘のようだ。そうして足元がぐらぐらと揺れ始めた。
この地面が崩れるとどうなるか俺には判っている。地面の下には真っ暗な闇がぽかりと口を開けていて、あれに丸ごと呑み込まれるのだ。そうしたら俺は俺でなくなる。もうなにも考えなくてよくなる。
早く崩れてしまえばいいと思う。
それなのに揺れは小刻みになって幅は小さくなって、


目が覚めた。震えているのは俺の肩だった。

昨日も飲み過ぎたらしい。ぎしぎしと軋む後頭部を押さえると今度は額が割れるように痛んだ。
着崩れた寝間着から、誰かが俺の部屋まで引きずってきたと見える。帯は腰で辛うじて止まっていた。
掛け布団が腿から下に、申し訳程度にかけてある。

まだ半分霞がかったような頭を振りきるために、勢いを付けて上半身を起こす。畳に裸足の踝を擦りつける。背筋に薄く鳥肌が上ってくるのをやり過ごす。
枕元の置き時計を見る。誰も起こしに来なかったことを考えるだに今日は非番だったらしい。
着替えたり居住まいを正したりする気にもなれず、胡座をかいた。


畳の上に転がっている柄が目に入って、惰性で手に取る。
ずしりと手になじんだ重さ。身を抜くとチン、と澄んだ音がした。
これはひとごろしのための道具だ。そして俺自身もまたひとごろしの道具だ。脂をふき取った刃の表面はわざとらしくてかてかと光っている。何度真っ赤になっても拭けば素知らぬ顔をしててかてか光る。
いくつものいくつもの皮と真皮と肉と筋と骨と内臓とを潜ってこいつはなおも素知らぬ顔をしている。俺がいくつものいくつもの悲鳴と怒号を潜ってなおも平気な顔が出来ているように。

俺がこんなに磨り減っているのは、その悲鳴と怒号の所為なんだろうか。俺の中を通り抜けた振りをしてその実少しずつ沈殿して俺に軋みを与えてるんだろうか。でもそんなのここにいるやつらみんな同じだ。あいつらもひとを斬ることで心に闇を飼いこそすれ、人間らしさを磨り減らされたりはしていない。そうだ俺だってそんなことじゃおかしくなんかならない。



「…副長」
気配に気付かなかった。舌打ちをして振り向くと障子の向こうの人影はすんません、とかそんなようなことを小さく云った。わざと気配を消したのでもない限り謝られる筋合いはない。俺はこいつのこういうところにいつも不愉快にさせられる。
「入れ」
投げるような口調で云うと、きしんだ音をさせながら障子が開いた。
「お休みのとこ、すみません」
「いい。報告だろ」
非番の日でも副長である俺には昼と夕方に中間報告が入る。
山崎は膝立ちで躙り寄ると、手元の書類を早口で読み上げた。大方俺を引っ張り出すような大事はなかった。

「わかった。ご苦労」
煙草に火をつけながら追い払うような手振りをするけれど、腰を上げる様子はない。
「あの、」
思い切ったようにそれだけ云ったきり、山崎は目を伏せた。
続きを促すようにジッポの蓋をカチンと鳴らす。二度目の音とほぼ同時に声は続いた。
「最近副長、荒れてるっていうか…」
荒れてる。随分丁寧な物言いをするものだ。
「確かにわかりますけど、局長、ここんとこずっとお妙さんとやらに夢中で、隊務もそっちのけだし、でも…」
云いたい事なら判る。持って回ったいい方が気にくわなくて俺は低く呻いた。
「でも何だ」
山崎が息を呑む。俯いて眉を寄せた。

「…あんなふうに殴りかからなくても…」
声音はここに来て憔悴したようになった。
「酔ってたからって、こう何度もだと隊士の志気にも影響します」
それは正論だったし、正当な進言だった。
そう、この組はあのひとの家で、それをバラバラにするようなことは俺の本意じゃない。俺があのひとにたてつくような事をすれば当然反感を買う。大方の隊士は大将に手を上げられていい気持ちはしないだろう。それにずっとあのひとの右腕で働いてきた俺があのひとを詰れば、隊務がお留守になっているあのひとの言動を快く思っていない者へ、その違和感を増長させるような事にもなりかねない。元々真選組はあのひとへの忠誠心だけでもっているようなごろつきの集団だ。統一された意思が揺らいだらあっというまに統制が利かなくなるだろう。俺だってそれがわからないような莫迦じゃない。
それでも俺は俺の中で猛るけものを抑えきれないのだ。


俺の命なんてこの脈を一つ切っただけで絶えてしまうのに、そんなに軽いものなのに、なぜ気持ちはこんなに重苦しく俺の腹で疼くんだろう。
器が悲鳴を上げる。堪えきれないと悲鳴を上げる。
俺はもう狂っているのかも知れない。あんまりゆっくり歪みが俺を浸食するものだから今まで気づけなかっただけなのかもしれない。
狂っていると思えば安堵もできるだろうか?








その日夕飯時になっても近藤さんは戻らなかった。珍しいことじゃない。
夕方から食堂と近藤さんの部屋とを何度か行き来していたけれど、そわそわしている自分が厭になった。晩飯を食べないのかと総悟に声を掛けられたがお茶を濁して自室に引っ込んだ。食欲なんてない。胸焼けが酷い。まだアルコールが抜けきっていないのかもしれない。

部屋の灯りを付けるのも億劫で、畳に座り込んで一服した。
灰皿に手をやると、もう揉み消すところがなくなっている。一度灰を捨てなければならない。舌打ちをして胡座を崩したところで、廊下を大柄な足音が渡ってくるのが聞こえた。
飛び出しそうになる身体をいなす。息を大きく吸って、吐いて、それから戸から顔を覗かせた。

丁度部屋の前まで来ていた近藤さんが腕を軽く上げる。
「おう、トシ」
足をひねったかしたらしく、右足を庇うように歩いている。
「ははは、またやられちまったよ」
今日も手ひどくやられたらしい。血が滲んだ目元をさする。

他の女を追っかけ回していたときも、ひっかき傷やら手形やらを作って帰ってくる事はあった。けれどあのお妙とかいう女は次元が違う。どこまで馬鹿力なのか、打撲傷ならいいほうで、脱臼やら骨折に至る事も一回や二回じゃなかった。

このひとに愛されるのも、このひとに傷を付けるのもあの女で、それが俺には堪らず気にくわなかった。俺がこのひとを酔って殴るようになったのも、そういえばあの女が現れて以降だ。
顔を思い出すのも厭だ。吐き気がする。刀の錆にしてしまえたらどれだけすっきりするだろうと思う。そうしたらこのひとは俺を憎むだろうか。睨め付けて呪いの言葉を吐くだろうか。
愛されることができないならば憎まれた方がまだましかもしれない。

俺はこのひとに殺されたがっているんだろうか?
今の俺には、それ以上幸せな結末を想像する事が出来なかった。



「早いとこ着替えて湯を使うよ」
ばつが悪そうに笑う。今にも進んでしまいそうな歩みに、俺は焦れて肩を割り込ませた。
「そんな格好じゃ風呂にも入れないだろ」
袖を引く。我ながら男の気の引き方もわからない小娘みたいな仕草だと思った。

「手当てしてやるよ」
「そりゃ助かる」
近藤さんは屈託無く云って俺の部屋に上がった。俺が棚から救急箱を出す間、書き物机から椅子を引っ張ってきて大人しく座っていた。
ヨードチンキやガーゼやらを机上に一通りぶちまけて、怪我人に向き直る。
「見せろ」
一番怪我の酷そうな額を撫でる。
「ああ、すまん」
近藤さんはそう言って瞼を閉じた。左眉の上からこめかみにかけて裂傷が走っている。消毒液を手荒くかけると近藤さんは、いちち、と顔を歪めた。血をふき取ってみるとそう大した傷じゃない。ガーゼを当ててテープで止める。
視線を下にずらすと頬も腫れている。頬骨にそってついた痣。
「これは俺が昨日やったやつだな」
もう青から紫に変色している。流石に罪悪感がちくりとした。
「痛むか」
「なに、大したことねぇよ」
これは俺が付けた痕。この痣もそのうち消える。そう考えたら不意にもう一度殴りつけたい衝動に駆られた。消したくない。

このひとに深く深く俺が刻みつけばいいのに。痛んで痛んで他の事は考えられないくらいに俺のことを思えばいいのに。


名前を呼んでくれる。笑いかけてくれる。懐に入れてくれる。あまつさえ右腕として傍においてくれる。
足りない。それでも足りない。
これは欲張りなのかもしれない。身にそぐわない贅沢なのかも知れない。
それでも俺は身体ごとでこのひとを欲しがっている。手に入らないなら死んだ方がましだとまで思う。想う。気が、違いそうだ。


「…トシ?」

知らず知らずのうちに俺は、喉を晒して喘いでいた。臓物がみな下から圧し上がってくるような錯覚がする。それくらい息苦しい。近藤さんのほうなんて見られない。
俺は今さぞ酷い顔をしているだろう。

「俺は狂うかも知れない」

銀幕の女優みたいだと思った。そして男優の科白を待っている自分に吐き気がした。
望むものが与えられた試しなんて一度だってありはしないのに。

「俺が、俺でなくなるかもしれない」

脳味噌まで酸素がまわらない。
息継ぎをするみたいに切なく息を吸い込む。
不意に、持ち上げた顎にぐい、と強い力で親指が添えられた。目交いまで迫った近藤さんは笑っていなかった。
「トシが、トシでなくなったら、」
白い歯がきちりと鳴った。押さえられた指の下でどくりどくりと脈が鳴る。

「そうしたら俺が殺してやる」

俺は戦慄く唇で聞いた。
「ほんとうか」
「ああ」
力強い声が云った。そうだ。このひとが嘘を吐いたことなんか一度もない。
子供の頃から一度だって、このひとは嘘を言わなかった。

指切りだ、と小指を差し出される。
俺は畳の上で握りしめていた右手を身体の前に持ってきた。指は自分のものじゃないみたいに震えていた。
その冷たい指に指を絡めて、鉤方に曲がるのに脳味噌が沸騰したみたいになる。熱い。ちっとも熱くなんかない筈なのに熱いと感じた。

ゆびきりげんまん、調子外れな音程は真摯で、俺は顔を覆いたくなる。
どこまで気休めなんだろう。どこまで子供だましなんだろう。
けれど小指は馬鹿みたいに冷たくて同じだけ熱くて、
覗き込む瞳はどこまでも真っ直ぐだった。俺には疑うことなんてできない。世界も自分の五感も全てがすっかり信じられなくなっても、このひとだけは疑えない。


目の前が真っ暗になっていく。けれどその闇は暖かいもので、泣きたいくらい暖かいもので、容赦なく俺の胸を潰していく。
救いなんかどこにもない。そんなことは百も承知だったけれど、
この小指が離れる前にその闇に熔けてしまいたいと、ただ希った。