浴びるように飲んでも上手く酔えない夜もある。 時計を見るともう丑三つ時で、俺は自室に向かう足を少し早めた。 そうすると真っ直ぐ歩けていないのがわかって、苦く笑う。 しんとした廊下、靴下越しに木目は酷く冷たい筈だけれど、アルコールのせいで末端の感覚は麻痺しているようだった。 廊下を曲がれば、すぐ手前の隣室から明かりが漏れているのに気づく。 そのまま行過ぎるのもなんだと思い、障子越しに短く声をかけた。 「トシ、ただいま」 ノックもなしに戸を引くと、 こちらに向けられていた、丸まった背中が振り返った。トシらしくもない、ぼんやりした所作だ。 ひとりで晩酌でもしていたのか、机の上には半分減った一升瓶と猪口が出されていた。その奥に置かれた写真立てに目が止まって、 冷水を浴びせられたように、すっと意識が明瞭になる。 「…そっか、月命日だもんな」 小さく頷く、赤くなった耳朶に目を眇めた。背後から吹き込む夜風が、頬にぴりぴりと薄い鳥肌を立てる。俺は後ろ手に障子を閉めた。 「隣、いいか」 返事を待つことなく、座卓の角に陣取り胡座をかく。 改めて机上を見遣れば、写真は少し色褪せたものだった。髪を結い上げた、十代の彼女がこちらに笑いかけている。 「古いのしかなかったんだな」 印画紙の端は擦り切れている。ずっとトシが持ち歩いていたものかも知れない。 想像して、ふふ、と口の中で笑った。 トシは先刻から黙って相槌を打つだけで、口を開こうとしない。 若干俯いた顔には前髪がかかり、表情が伺えなかったけれど、緩く結ばれた口元を見て俺は尋ねた。 「…まだ、悔やんでるのか」 「いいや」 初めて開いた口からは、ぽつりとそれだけ漏れた。 「お前にできるこた、みんなしたよ。ミツバ殿だって浮かばれただろうさ」 「……」 「わかってるよ、彼女も」 お前の本心をさ。 饒舌すぎるくらいに言い募る。机の上に出されたトシの拳がぎゅうと結ばれた。 「…りがとよ、近藤さん」 笑みの形に作られる唇に、俺はそこで口を噤まざるを得なくなる。 彼女とのことはトシの中で完結していて、 俺と云えどその空虚を埋める術はないのだと、乾いた声が物語っていた。 伏せられる長い睫を撫でるように見遣り、項の後ろから迫り上がってくる痺れに背筋が伸びる。 二人の間に何にもないことなどよく知っている。 だからこそそれがこいつの、大事に仕舞い込みたい純情なのだ。 肉や欲を介さない、ひっそりと咲いた花のような想い出を、 思う様手折って、踏み躙ってやったらこいつはどんな顔をするのだろう。 こいつの全てが、それこそ切れ端ですら、俺のほうを向いていないと気がすまない。 独占欲だとかそんな生易しいものではない、病じみた凶暴な執着。 俺はこれを存外上手く飼い慣らしている。 「怪我、もう平気か」 先頃まで包帯を当てていた生え際の辺りに、そっと指先を這わす。 トシは身体を竦め、少し驚いたような、掠れた呟きを漏らした。 「あったかいな」 「当たり前だ、生きてんだから」 笑い混じりにそう応えたら、トシは衝かれたように顔を上げた。 目線が正面からぶつかる。見開かれた瞳が揺れる、一瞬の隙を、俺は見逃さない。 膝を畳につき、前のめりの体勢でトシを力一杯抱きしめる。 腕の中で肩が強張るのに、腹の底から太く震わせた。 「俺ならいなくなったりしねぇ」 ふ、と息を呑む音。 「お前を置いていったりしねぇよ」 「んど、さん…」 息継ぎをするように俺の名前を呼ぶ、声が嗚咽にひきつり始める。 「ずっと、傍にいてやっから」 子供のようにうん、うん、と何度も返事をして、俺の首筋に額を擦りつけるのを、更に力を込めて抱いた。 背中を撫ぜながら、俺より少し低い体温にうっとりと瞼を落とす。 可哀想なトシ。 可哀想に、 これでもうお前には、俺しかいなくなっちまったんだぜ。 071217 |