陥溺


一晩まんじりとも出来なかった。
畳に落ちる自分の影が薄くなりまた次第に濃くなっていくのを重たい瞼の底から眺めていた。
気づけば燦々と差し込んでいる朝日にさえ、どこか贋物のような余所余所しさがある。

乾ききった唇を湿らそうとするけれど、舌さえ思うように動いてくれない。
あのときあのひとに明け渡したこの身体は、もしかするともう二度と返ってこないかも知れない。
けれどそれはいたしかたがないことのような気がした。諦めに似た、けれどどこか甘やかな感覚がおれをじとりと覆っていた。







随分と遅れて食堂に行く。
戸を引くとざわめきが若干小さくなり、おれの前に軽く道が空いた。
ミツバのことがあって以来おれの勤務態度が悪いのは常なので、別段誰もおれを咎めない。気遣ってくれているのか、むしろ距離を置かれている。

気乗りがしないながらも配膳台からトレーをひっつかみ、目立たぬように一番端の席を引いた。
ぐるりを見渡して、小さくため息を吐く。よかった、彼の姿はない。
どうとでもなれという気持ちでここに来たものの、考えてみればあのひとは今日は本丸で定期連絡会だから朝から出かける予定だった。

向かいにがたり、とトレーが置かれた。
億劫に視線だけ上げると、山崎が自分の目元を指さして唇を尖らせた。
「副長、隈」
今日は一段と酷いです、云いながらタオルにくるんだ保冷剤を突き出す。
瞬きを返すだけのおれに、山崎は肩を落として見せた。
ぼりぼりと頭を掻きながら椅子を引いて斜めにかける。
元気出せなんて云いませんけど、そう前置いて、諭すように呟いた。
「あんたがいつまでもそんなだと、誰も浮かばれないですよ」
伺うような、それでいて睨むような、山崎の顔を眺めながらおれは考えていた。
昨日までのおれならどうするだろう。余計なお世話だと椅子を蹴るか、殴りかかるか。
けれど今はこんな見当違いなことを言うこいつがおかしくすらあった。
おれは返事も出来ずにふいと顔を背けた。






頭の中はどうしようもなくぼやけて、まともな思考なんかできない。
ルーチーンすら満足にこなせそうになかったので、結局巡回もそこそこで切り上げて、おれは参謀室で時間を潰すことにした。
ここなら幹部以外の立ち入りはない。
乱雑に積み重なる書類をよけて灰皿だけ置き、椅子を寄せて九割方塀で占められた窓の外を見ていた。
煙草の煙で肺を燻しても、いつものような爽快感はない。銘柄が違ったわけでもないのに、たばこは紙の味がした。


背後でドアが開いたかと思うと、大股の足音が突き当たりまで駆け抜けた。
粗雑な所作で窓を開け、小柄な人影が向き直る。


「総悟か」
少し赤みがかった西日に照らされて亜麻色の髪がちかりと光る。
おれはどこか懐かしさすら感じて名前を呼んだ。



総悟は急に、不機嫌そうに顔をしかめた。
ずいと頬を寄せ、至近距離で瞬きをして見せる。
おれはここにきて、こいつが何をしにこの部屋に来たのかを悟った。
こいつはおれにミツバを突きつけて、こいつなりのやり方でおれと傷みを分け合おうとしているんだ。
そこまで考えが及んで、急に噎せそうになった。だってもうおれにはこいつと分け合う傷みがない。
昨日までのおれならいざ知らず、最早彼女のことが傷みであるわけがなかった。
それは泣き喚いて縋りたいほど、あたたかくただしい、正しかった、かつてのおれの亡骸であって、そんなものを突きつけられたところでおれは哀しくなりこそすれ苦しくなんかなれない。


眉を寄せ顎を落とす。総悟は身体を退いて、胸を軽く反らした。
おれは、と、語気を高める。

「あんたの背中を一生、離れねぇよ」
総悟の口元は笑いながらひきつっている。

「あんたが一生、誰にも惚れたりできないように」

おれはせりふを追って、意味を必死で咀嚼して、
呆然と答えた。

「んなの、云われねェでも、」
わかってら。語尾は掠れて頼りなく消えた。
なにを云っているのだろう、こいつは。

今のおれの、どこを引っかき回したって、焦げついたように真っ黒な、ぞっとするようなものしかない。
あんなに純粋な気持ちになんか、二度となれない。それは確信というよりは絶望に近かった。






あのひとと、あのひとの下でひきつっていたおれの肉、が、くりかえしくりかえし脳裏にちらついてはおれの体を竦ませる。それはさざ波のように生暖かくゆるやかに押し寄せるのに、いくら後ずさっても逃れることができない。足首をとらえ、膝頭をとらえ、もう胸の辺りまで来てしまっている。
肺まで水が満ちてくるような厭な気分だ。


怖ろしい、息が、できない、








自室の戸を開け放して廊下にはみ出すように座って、
もう小一時間もおれは、重たい足音を待っている。
外気の冷たさは末端を凍らせてしまいそうだったけれど、血が上ったような頭は決して寒いと感じなかった。
口の中はからからで、こめかみも痛い。酒を飲んだときと似ていると思った。
酒なら吐けば済む。これは余程性質が悪い。



「トシ」

呼ばれて、ぎしりと面を上げる。
廊下を浸す漆黒から姿を見せたのは他でもない彼だった。
「ただいま」

月明かりからちょうど逆光になって、近藤さんの顔はよく見えない。
声が近づくに連れ、自分の身体がどんどん金縛りみたいになっていくのがわかった。

「…おかえり」

近藤さんはおれの足の間に膝をついた。椿油の香りと、サージ越しの体温を僅かにとらえて、おれの五感はもう固まってしまう。

ひやりとした手がおれの胸から這いずり、首筋を捕らえて止まった。
冷たいはずなのに燃えるように熱いと思った。
力なんか少しも掛かっていないのに、息がどんどん苦しくなってくる。

「おれが、怖いか」

近藤さんの穏やかな声が鼓膜に染み渡る。
おれは押さえられた喉を震わせて喘いだ。

「怖ェよ」
声は泣いたようになっている。眦に滲むのは生理的な、どうしようもない涙だった。


あんたに壊されたいだなんて、
どうして云える?


ゆっくり視界に大写しになっていく、近藤さんの表情を見ていられなくて目を眇めた。
これから肌を覆い尽くす熱を想像して、早くそこにこの残り僅かのおれを投げ出してしまいたいと思った、
早く、早く。




頭の上でちゃぷん、と、
水音が聞こえた気がした。