泥のようなものに沈んでいた意識がふと、静謐な空気に呼び戻される。 おれは鉛のように重い瞼で小さく瞬きをして、裸の肩と布団の堅さを憶えた。 内股に走る痺れをぼんやりと感じる。瞬間、記憶が雪崩のように押し寄せた。 おれは思い切り目を見開く。 しんじ、られない、 ことばかりがおれを襲った。この部屋で、そしてそれをもたらした相手は、 そこまで考えが及んで、がばと跳ね起きる。おそるおそる、ぎしりと首を回した。 行燈の薄明かりだけが部屋をおぼろに照らしている。 布団のすぐ脇で腕を組む、近藤さんの口元がはっきりと見えた。 笑みの形に作られている、この唇がさきほど 壊してやりたい、と動いたのだ。 まざまざと思い出されて、 おれは合わない歯の根を必死で結んだ。 「体は痛むか」 無造作に手を伸ばされて、びくりと身体が強張る。 おれの肩にそっと着物をかけ、声は苦く笑った。 「震えてるな」 「るえて、ねェよ」 すかすかに掠れた声が反射的に虚勢をはるのを、頭の隅の冷静な自分が嗤う。 近藤さんの顔を見たくない一心で、おれは面を伏せ続けた。 だって今彼の顔を覗き込んで、あの瞳に掴まってしまったらおれは、 どうなってしまうかわからない。どんな殺し合いをしたときより惨い、かつてない危機感がおれを駆り立てる。 喉の奥から絞り出す。 「…寝る」 「ああ、まだ丑三つ時だからな。暫く寝られるぞ」 「部屋に戻る」 「…そうか、肩を貸すか」 「いい、一人で」 それだけ云うと、おれは麻痺したような身体を引きずり、四つん這いのまま戸に手をかけた。かちかちと爪が木枠に当たって鳴る。 わずかなとっかかりから力任せに引っ張り、逃げるようにして廊下に転がり出た。 自分の部屋までのたった十歩が、あまりに長く、果てしないように思われた。 自室の障子をやっとのことで閉めると、おれは戸に背を向けて蹲った。足はそこから萎えたように動いてくれなくなった。 出しっぱなしになっていた寝床から、掛け布団を剥いで引き寄せる。頭から被った。寒い。 おれを包むこれは紛れもなく恐怖だった。 あのとき揺さぶられて漏れた精のように、女みたいな声のように、 おれの中から力ずくで、何かが引きずり出されていくような、酷くグロテスクな予感が生暖かくおれを包んで離さない。 おかしい。どうしたっておれはおかしくなっている。 だっておれはここ何日もずっとミツバのことを考えていた。それで他のことはどうでもよくなるくらいにふさぎ込んでいた、のに。 彼の部屋を訪れるまでおれを捉えていた、破れかぶれな気持ちや、感傷的な気持ちや、そんなものはみんな、すっかり影を潜めてしまっている。急に音が遠くなってしまったような、変な距離感がある。 そのかわり突きつけられたリアル、肉と、熱と、叩きつけられたあのひとの、狂気、に、 いくら諫めても手の震えが止まらない。 頭のなかはめちゃくちゃにひっかきまわされたみたいで、見当も付かない。 おれは何を怖ろしいと思っているのか。 この嫌悪感は何へのものなのか。 廊下からぎし、と木音がした。 はっとして視線を走らせ、おれはすんでの所で叫び声を飲み込んだ。 月明かりが畳に落とす格子柄の影に、細長く伸びた人影が覆い被さっている。彼だ。 おれは身を竦ませ固唾を呑む。 どれだけの時間が経っただろう。実際には数十秒も経っていないのかもしれない。 人影は一言も発することはなく、そのまま歩き出した。 足音がなくなるまでを聞き届けて、全身から力が抜けるのを感じて、 おれは慄然とした。 彼が去って安堵感とともにおれの身体を襲ったものは、 疼きだった。 彼がこの戸を開いて、おれを抱きすくめて、思う様蹂躙するのを、 おれから理性を、言葉を根刮ぎ奪い去っていくのを、 この身体は確かに期待して疼いたのだ。 「あ、あ」 口から漏れた吃音は、空中で頼りなく弾ける。それを皮切りに、嗚咽がひっきりなしに漏れた。 おれは自分で自分の肩を抱き寄せる。 こんな恐怖を、おれは知らない。 |