もう何度目かの小便に行って、用を足したら部屋に戻る。身体も頭もかっかして暑いのに、足の裏で廊下の感触だけが冷たい。 襖を開けると窓は大きく開け放されていて、その近くに座っている近藤さんが見えた。行燈で室内はほんのりと薄暗い。 「おいで」 呼ばれてふらふらとした足取りで近づき、近藤さんの膝の上にどっかと乗っかる。 湿気を含んだ浴衣同士が触れ合い、遅れて背中に近藤さんの脈を感じる。よりかかりながら、あつい、と零せば、じゃあ離れろよ、と呆れたように近藤さんが言った。 近藤さんが畳に置かれた盆に手を伸ばし、手酌で猪口に酒を汲んでいる。おれも、とねだれば、そんなにべろべろなのに、と声が笑う。 「まだ飲むのか」 「飲まねえ、でか」 ひったくるようにして猪口を奪い、ぐびりと煽れば、喉に貼り付いていく酒が焼けるようだ。鼻に抜けた刺激臭に意識が痺れる。おれは体重をいっそう近藤さんに預けた。 湿気を限界まで孕んだ空気がおれたちをみっしりと覆っている。 部屋の真ん中に置かれた扇風機が気休めのように首を振り、機械音が低く耳に届く。 外からの風はほとんどなく、それでも時折、虫の声とむっとするような草の匂いを運んでくる。 今が何時で、今日は何日なのか、明日は早いのかそうじゃないのか、そんなこともわからないぐらいには酔いが回ってしまっているのに、それでも苛立ちだけは落ちない汚れのようにそこにあって、おれは意識の一番手前にあった不平を述べた。 「なんで、金を貸すんだ」 「ん?」 「昨日。キャバ嬢の、陳腐なお涙頂戴話にだまされて、」 水商売の女が酒の席でする話なんか、何で信じようとするんだ。何度繰り返しても懲りない。 「まだその話か」 ふふ、と声が笑う。 「五月に、持ち逃げされたばかりだろ。年末にも、去年の秋口にも。店をやめた途端、みんな音信不通になったじゃ、ねえか」 名前を口に出すのも嫌な、すまいるのあの女なんて作り話をする手間すら惜しんだのか二か月に一回誕生日が来て、そのたび鞄だの宝石だのを貢がせている。 「よく覚えてるなあ、トシは」 忘れるわけがねえ。あんたが笑顔を向けて、かわいいかわいいと愛でて、歯の浮くようなおべっかでへつらい、おれにはついぞ向けられないような慈しみを施す、 あの狡猾な女という生き物を、おれは想像の中で何度殺したかわからない。頭の芯がぼうと痺れてくる。 近藤さんの太く長い指が、こめかみから髪をくすぐるように撫でた。 「お前は女を恨むようだからいけない、」 どういうことかわからずに、のけぞれば視界に、近藤さんの口元がさかしまに映って笑う。 「愛も憎も、みんな俺によこせばいいんだ」 手首を握られ、首元にひたりと当てられる。掌にじたりと湿った肌が張り付く。 おれが舌も頭も回らなくなるのに引き換え、近藤さんは深酒をすると変に落ち着いて見える。妙なことを言い出すのもこんなときだ。 「ほら、いつだって喉はさらしてやってる」 切り札はいつもお前にあるぜ、と囁く。そうやっておれを挑発する。 嘘吐き。 喉がせり上がってぐうと鳴った。言葉にならずにおれは噎せる。アルコールの回った頭では上手く言い返せない。おれはただ悔しい。 近藤さんの鼓動が掌越しに、どくどくと力強く息づいている。おれはかぶりを振った。前髪が汗で張り付いて額で揺れる。 「あんたと、」 死にたいわけじゃねえ。舌から零れた声は情けないほど弱弱しい。 怖いものなんざ何もなかったのに、あんたと出会ってから、この世は恐怖で満ち溢れている。 時間が流れていくのが怖い。あんたの心の臓の音が止まるのが怖い。あんたの生におれがいなくなることが怖い。あんたがおれを忘れてしまえることが怖い。 想像するだけで震えが走る。おぞましさに身が強張る。 おれはこんなにも命ぎたなくなってしまった。 せめてもの意趣晴らしに、おれは近藤さんの胸元にそっと顔を寄せた。鎖骨の辺りを甘噛みする。 くすぐってえ、と近藤さんの声が震えた。目交いで喉仏が上下するのを見やる。浴衣の下で背中を汗が伝う。近藤さんの匂いを肺一杯に吸いこむ。おれたちを包む絡みつくような湿度が、金輪際体温を二つに分けてしまわないようにと栓もないことを祈る。 いつだって、致命傷にならないぎりぎりの強さで、あんたは俺の首根っこに噛み付いているんだ。 120805 |