生きたということはただの記憶でしかない



「む、」
重苦しさと暑苦しさに目が覚めた。腹に覆いかぶさる体重をどければ、ごすん、と音がした。
目をこすれば 今どけたのは永倉の頭だったようだ。結構乱暴にしたつもりだったけれど、奴は全く目を覚ます様子もない。ぐご、と鼾が立つ。
何度か瞬いているうちに、暗い視界に目が慣れる。格子窓から月明かりが差し込む道場は人いきれと酒の匂いで充満していて空気が悪い。あちこちから寝息が聞こえてくる。皆寝静まってしまっただろうか。
きょろきょろ辺りを見回しせば、鼻が嗅ぎなれたにおいを捉えた。微かに風が吹き込んでくる。出入り口のほうだ。

俺はよっこらせ、と腰を上げた。すっくと立ち上がれば可笑しな体勢で寝ていたからか、体のあちこちが軋む。
壁には一面紅白幕が張り巡らされ、中央には局長三十路突入記念、と不格好な毛筆が謳っている。余計なお世話だと苦笑する。
今日は日が暮れるか暮れないかのうちから道場で酒盛りが始まった。ひっきりなしに余興や出しものが続き、誰が持ち込んだかカラオケ大会になり。
大概は有難迷惑なプレゼントやらを押し付けられ、浴びるように酒を飲ませられて、意識を手放してしまったのはいつ頃だったろう。日付が変わる前だったか。
袂に入れっぱなしの携帯電話を開けば、夜明けまではまだしばらくある。

所狭しと転がった連中を蹴飛ばさないように注意深く避け、立ち上る煙のほうへと近寄っていく。
開け放された扉の陰に、予想した通りの顔があった。
「寝られねえの?」
「いや」
トシは曖昧に答えて首を振った。

俺は振り返ると、道場の床に突っ伏す隊士の顔をひとりひとり眺めた。

ゆるみきった顔をしているやつ、高いびきをかいているやつ。あいつはもう八年、そっちのあいつは三年目。足もとで一升瓶を抱いている原田は武州の頃から、思いだせばきりがないぐらいの長い時間を一緒に過ごしてくれた。
みんな俺を慕ってここにいてくれる。口も柄も品も悪いが自慢の仲間だ。
危険な仕事だって文句ひとつ言わず、無条件で背中を預けてくれる。朝から晩まで一緒にいるこいつらは、仲間、を通り越して、家族、という感覚に近い。

きょくちょお、と誰かの口から寝言が聞こえて、急に感極まってしまった。鼻柱の裏からつんとしたものが上ってくる。
「涙もろくなっていけねえや」
そう云って目元を押さえれば、
「年だな」
トシが抑揚も無く笑った。俺は瞼を伏せて、
「ああ、もう死んでもいいや、」
心底からそう言った。そしてそれはトシに正しく伝わったらしい。
「、こんなに愛されてるのに」
きし、と歯が噛み締められる音。
「あんたはまだ、そんなことを言うんだな」
トシは不快を隠そうともせず顔を歪めた。


愛されてないだなんて思っていない。みんなが俺を大事に思ってくれているのはわかる。
けれどその反面、果たしてそんなに愛される資格が自分にあるのだろうかと、いつだって自問している。いまいち実感がわかない。
だって俺は賢くもなく器用でもなく、笑ってしまうほど力も無い。
上手く立ちまわれずにこいつらの立場を悪くしたこともある。力が及ばずに傷つけたこともある。そして俺が頭にいたせいで救えなかった命がある。取りこぼしたものを数えるたびに遣る瀬が無い。
その無念も恨みも辛みもみんな引き受けるつもりできただけれども、そんなものは俺ひとりで贖えるものじゃないことも知っている。

両肩にかかる重みを、いつだって痛いほど感じている。
俺を信じてついてきてくれる連中に少しでも報いたい。
だから願わくば死ぬ時ぐらいは、犬死じゃなく、
そうか。俺は人柱になりたがっているのかもしれない。

トシはふいにしゃがむと誰かの飲み残しのビールの缶に煙草の灰をすりつけた。口をつぐんだ俺に苛立ったような所作だった。
「あんたが死んだら、おれも死ぬから」
下を向いたままトシは吐き捨てるみたいに言った。
それからばっと立ち上がり、鼻先まで顔を近づける。目交いで傷ついたように瞳が揺れる。文字通り、と続く声は尖っていた。
「一秒だって生きちゃいねえ」


莫迦なやつ。
こいつは、自分のいのちで俺を引きとめられるとでも思ってるんだろうか?
「ああ」
そんなのは知ってて死ぬよ。いつだって、お前は道連れだ。


俺の相槌をどう受け取ったのか、トシは正面から俺に抱きついて、どすんと懐に顔を埋めた。もう俺からはつむじしか見えない。背中に回された腕に痛いぐらい竦められ、その力強さに、は、と短くため息を吐く。

今ばかりはいつものように、お為ごかしにお前の頭を撫でることはしない。
俺に愛されるということは、俺に自分の一部と思われることは、お前にとってあんまり幸せなことじゃないかもしれない。


俺たち二人を包む空気は湿気を孕んでみっしりとしていた。朝焼けが東の空から迫っている。俺は母屋の屋根を仰いだ。
やがて明けていく空の赤さは容赦なく、燃える様で、不意に畏れにも諦めにも似た気持ちに囚われる。





110904