四肢にぼんやり感覚が戻ってきて、半覚醒で瞼を震わせる。体に残る疲れと網膜に届く光量でまだ朝ではないと踏んだ。 それからおれは手を横に伸ばして、布団に体温がないことにぎくりとする。 焦る気持ちで一気に意識が浮上する。ぎしと視界を回せば、畳には開け放された障子から長く月明かりが伸びていて、 そのほの薄い黄色に照らされるようにして縁側に座る近藤さんの背中が見えた。みゃあ、という細い鳴き声。 衣擦れの音に反応したのか、近藤さんは背中で言った。 「起こしたか」 肩に力を入れて身を起こす。腰にはまだ名残の倦怠が残っていて、それを消してしまいたくなくて動作は緩慢になる。 踵を布団から滑らせ、畳に踏ん張って立ち上がる。みしり、と鳴らしながら一歩一歩、近藤さんのほうへと近づいていく。 「まだ夜明けには大分間があるぞ」 「知ってる」 すぐ後ろにぺたりと座って、肩ごしに覗けば近藤さんの膝には黒い猫がいた。 「こいつがな、鳴くから。起こされちまった」 ほんのり漂う生臭さに気付く。脇には使いさしの鰹節のパックが置かれていた。ふん、と鼻を鳴らして、おれは気のない返事をする 「たまにこうして餌なんかやっていたら味をしめられちまったらしい」 近藤さんは愉しそうに口角を上げる。お前もでかくなったなぁ、と喉を撫ぜられ、猫はごろごろ言った。 ここは動物園じゃねえ、なんでこんなところで餌付けをするんだ、と言おうとして、ここに猫を集めた元凶であろう人間の顔がふと頭をよぎったけれど、あいつの名前なんか意地でも出さない。おれは言葉を飲み込み、代わりに近藤さんの背中に思い切り体重をかけてよりかかった。鼻先を襟足ちかくに埋め、浴衣の布越しに汗の香りをかぎ分けて、ほうとため息を吐く。 腹がくちくなったのか猫は舌を鳴らすと、近藤さんの膝で丸くなる。 「お前は可愛いな、」 近藤さんの言葉に、頭が瞬間真っ赤になった。 この畜生みたいにただ甘えるだけで、何の役に立たなくてもあんたに愛して貰えるのか? 黒い毛並みを睨めつけながらおれは思う。おれなら、あんたのために良心も誇りも善意も純情も、無辜の命だって、あらゆるものを犠牲にしてきたのに。 トシ、と呼ばれて身体が硬直する。 「殺したそうな目で見てる」 近藤さんは振り向きもせずに笑った。密着した背中が、くく、と揺れる。 「よくわかったな」 おれはぼんやりと応えた。自分の声に感情がないのをどこか他人事のように聞く。 自分と、このひとの間に、割り込むすべてが忌々しい。このひとの愛でるすべてのものが消えて無くなってしまえばいいと思う。そうすればそいつに行かなくなった愛がおれにいくらかでも余分に注がれるかもしれない。 おれの思考を読んだように、近藤さんは口を開く。 「でも、お前がそんなことをしたって、」 噛んで含めるみたいな声音。 「俺はお前のことを今以上に好きにはならないよ」 じわりと脳に届いた言葉が、甘い彼の声のオブラートから溶けて、それからじくじく疼きだす。 いつだってそうだ。 嘘だって、そうだって、言ってくれればいいのに、このひとは気休めすらくれない。そんな誠実なんかいらないのに、このひとは嘘を吐いてくれない。 そうやって長い時間をかけて業ばかりがどんどん積み重なって、おれはどんどん人ではない何かになっていくんだ。 悔しくって唇を噛む。それは堪える間もなく目尻に涙が盛り上がってきた。近藤さんの肩口に押し付ければ、浴衣の布が水分を吸っていく。 近藤さんの背がぐるりと回って、猫はびっくりしたのか膝から跳んで逃げた。 向き合うような姿勢になると、大きな手が俺の輪郭を捉えて上を向かされた。視線から逃げるように目を伏せていれば、近藤さんは俺の目元に唇を寄せた。涙袋に添えられた舌が、おれの涙を待ち構えては掬っていく。 俺は。 お前の悲しみを啜って生きているようなものだな、と。近藤さんの語尾は笑ったように震えた。 暫くこちらを伺っていた猫は、にゃあ、と一声鳴いて、間もなく去った気配がした。 みんなあんたが啜ってくれるなら、明日あいつは死なないで済むかもしれないのにね。 110607 |