調子の外れた鼻歌が廊下をこちらへ渡ってくる。いつも同じところで外れる音程も同じ。視線は携帯の画面に釘付け。このままではおれに気づきもしないだろう。 あと数歩、というところで、通路を邪魔すべくガン、と柱を蹴り上げた。 びりびりと家屋がきしむ音。近藤さんはぱちくりと瞬きをして、それから、いたずらが見つかった小学生みたいな顔で頭を掻いた。 「えへへ、バレちゃった」 バレちゃった、じゃねえよ。おれは吐き捨てた。 「また、あの女んとこか」 「だって今日メイドデーだって」 なんだよメイドって、冥土デーの間違いじゃねえのか。今日こそ本格的に送りますってことだろ。そういうことだろ。 「あんた今月もうオケラだろ、昨日だって原田相手に金借りようとして」 部下から金借りるとか最悪だ。でもほっといて消費者金融だのに手を出されるよりましなのか。 「ツケでお願いするからいいもん。だってトシ貸してくんねえじゃん」 「当たり前だろ!キリがねえ」 だいたい全部女のとこに吸い込まれるだけなんだから。特にあの女の性質の悪さはピカいちで、プレゼント遣すなら換金するのが面倒くさいから現金で、だなんて臆面もなく云いやがる。それをまた額面どおりに受け取って熨斗紙に包んで持ってくこのひともたいがいイカれてやがる。 近藤さんは口を尖らせて拗ねたように言った。 「トシはお妙さん嫌いなんだから」 やれやれ、といった態で肩をすくめられ、おれの苛立ちは頂点に達した。拳の中握りこんだ爪が痛い。ぎしりと食いしばった歯から、やっとのことで発音した。 「行くな」 頭の中をぐるぐる、黒い奔流が渦巻いている。言葉になったのはそれだけだった。 「なぁに、やきもち?」 近藤さんがからかうように聞くので、吐き捨てた。 「うっせえ、死ね」 わかりきったこと聞くんじゃねえ。自分の頬が火照っているのがわかる。近藤さんにはおれの気持ちなんか手に取るように分かっているのだろう。 なにもかもが腹立たしい。近藤さんから搾取するばかりのあの女はもとより、おれの気持ちを分かった上であの女のところへ行こうとする近藤さんも、女々しく嫉妬をする自分も。でもそれだって、おれをこんなふうにした近藤さんが悪いんだ。暢気な顔を見ていたらそういう結論になった。 人だって殺せそうなぐらいに睨めつけているのに、近藤さんは慣れっこなのか、ちっとも応えた様子もない。 「トシももっと素直に、かわいくなんなさいよ」 ぽんぽんと肩を叩かれて、むきになって乱暴に振り払った。 素直になったら、かわいくなったら、行かないでいてくれんのかよ。畜生、鼻の裏がつんとしてきた。 「あーあ、昔はかわいかったのになぁ」 そんなことをいうものだから、おれはむきになって言い返した。 「あんたこそ、最初のころはあんたからいちゃいちゃベタベタしてきてたじゃねえか。どこに行くにもついてきてよ。そんでおれが振り向いたらそれっきりかよ。釣った魚にえさは遣らないっていうのかよ」 近藤さんは否定するでもなく曖昧に口角を上げた。 そうだ。口に出してみてよく分かった。このひとはいつも、逃げるものを追うんだ。そうしてひとたび自分のものになったとわかったらぴたりと追うのをやめてしまう。 おれはもう悔しくなってしまって、無意識に踏ん張った足の裏が廊下をみしりと軋ませた。 「じゃあ、おれがあんたのこと嫌いになったら、追っかけてくれるのか」 あの女にするみたいに、うんざりするほど追いかけて、甘い言葉を吐いてくれるのか。想像だけで息が詰まってしまいそうだ。 「トシが、おれのこと?」 まさか、といわんばかりの声音に、頭までざっと血が上った。口は反射的に開いていた。 「あんたなんか嫌いだ」 せりふは変に割れてしまった。 「きらい、」 自棄になって繰り返すうち、ずくんずくんとせりあがってきた鼓動が、どんどんとおれの胸を締め付ける。怖い。この嘘はおれを足元から崩しておかしくしてしまう。だっておれから近藤さんへの気持ちを引いたら、何にも、それこそ何だって残らない。 「大嫌いだ」 語尾は震えてしまっている。おれの芯から身体の隅々までを操る原理は、ちゃちな意地なんかじゃとてもじゃないが打ち消せない、そもそもおれはなんでこんなことを口走っているのだっけ。 発音しきってしまったら、近藤さんの顔が怖くて見られない。眉間に必死で力をこめて、涙がこぼれないように足元を睨んでいると、袖が視界を覆って、右手がおれの頭を撫でた。声は優しかった。 「うそつき」 嘘といわれて途端に、全身から力が抜けた。これは安堵だ。ああおれはこの人が好きで、このひとがそれを知っていてくれて、それでやっとおれはおれの形を保っていられるのだと思う。 膝をついてしまいそうになって、近藤さんの袂を握り締めたら、近藤さんはおれの頭を引き寄せた。寄りかかればよそ行きの着物の樟脳の匂い、その下から近藤さんの汗の匂いを嗅ぎ当て、胸いっぱいに吸い込んで、は、と熔けきった溜息が出る。 どうせこの後このひとはのらりくらり言い逃れてあの女の店に行くんだろう。それだって構わない。今は少しでも長くこの手のひらを味わっていたい、頭の中はそれだけでいっぱいだった。 100708 |