鈍色


「急に降ってきたなぁ」
警邏中、かけこんだ軒先。水滴を払いながら彼がぼやく。
慎重に距離を測って肩を並べて、おれは口の中で、ついてねえ、と呟いた。


人通りの殆ど無い路地。町のざわめきも雨音で段々とかき消されていく。
懐から取り出した紙巻き煙草に火を付けようとしたが、しけっているのかなかなか付かない。カチカチとライターの音。

盗み見た彼は天を仰いだまま瞬きをしている。
彼の顎髭の形を目を細めて眺める。肉厚の唇、しまった首筋。ぴしりと伸びた背、に、思う様触れたい衝動に耐える。下らない事を話していてくれないとすぐにあんたのことで意識がいっぱいになってしまう。

厭な沈黙だ。こんなふうな間には心当たりがある。心臓の音が次第に大きくなってくる。
「トシ」
そんなおれを見透かしたかのように、ふざけているときのものではない声音でおれを呼んだ。良くない予感に限って当たって仕舞う。


「なあ、いつになったら言うんだ」

ああ、まただ。またこのひとは、こうしておれを試すんだ。
雨音の底から耳鳴りがして額が軋む。のどで唾液が鳴った。

「何を」

「俺のこと、好きだって」

ゆっくりとどめを刺すみたいに淡々と、低い声が云った。

胃が押し上がってくるような変な浮遊感が、あっという間におれを支配する。
くわえた煙草が零れそうになるのを、指で拾った。煙で燻られる肺がひりひり痛む。
ここで吐き出しちゃならない。呼気と一緒に口蓋まで来ている叫びを、やっとの思いで押し戻す。
気力を振り絞って、笑ったような声を作る。

「何寝言いってんだ」
こんなような問答がもう随分と前から、何度もあった。こう答えればこれ以上、彼はおれを追いつめて来ない。そのかわり、頃合いを見計らってはまた尋ねてくる。
そのたびにおれは素知らぬふりをして通さなければならないんだ。

穏やかな声が続く。
「はぐらかして欲しいのか」
「はぐらかすもなにも、」
「そうしてほしいならしてやる」

おれは返事も出来ずに俯いた。
おれがどんなに知らん振りを装ったって、掠れる声とか、間とか、ちょっとした視線の動きとか、自分でも気付かないような筋肉のひきつりだとかで、このひとにはお見通しなんだろう。
それでもおれは決して、そのひとことを言うわけにはいかない。

「俺は待つよ」
いくらでも、と声は笑った。
おれも笑おうとしたけれどちっとも上手くいかなかった。口元は痺れたみたいになって、思うように動いてくれない。


好きだとか嫌いだとか、そんなことを言い出すのも馬鹿馬鹿しくなるほど長い間おれたちは一緒にいて、精神的な繋がりを抜きにしたって、社会的な役職だとかそんなものまで強くおれたちを結びつける。
思いに応えられないとか、そんな理由で今更離れるわけにはいかないから。
何らかの切欠で気付いて以来、彼はこうして辛抱強く、おれの気持ちを掬おうとしてくれている。
それが救いなのか生殺しなのか、おれには見当もつかない。


「お前を失いたくないんだ」
声は真摯だ。目頭が熱くなる。どうか、もう口を噤んで欲しい。
おれのことを少しでも哀れに思うなら、もうこれ以上徒に優しくなんかしないで。
耳を塞いでしまいたい。けれどこの声は魔法みたいにおれを搦めて、縛って、身動きを取れなくしてしまう。

「そのためにおれは、どうしたらいい」

噛み締めた唇は鉄の味がした。おれが答えを持ってるとでも思うのか。
おれは知ってる。おれがあんたに縋って頼めば、気持ちだっていのちだって、きっとなんだって与えてくれるだろうってこと。
あんたが大切だからこそ、自分のエゴの犠牲になんてできない。
だっておれの気持ちはそんなに綺麗なものじゃない。
ここであんたに縋り付いたら、与えられても与えられても満足を知らない、際限なく浅ましい獣みたいになってしまう。

あんたにそんな姿を見せたくない。そんな姿を見せて失望されたくない。鬱陶しいとでも思われたらおれは舌を噛むしかない。想像するだけで胸がぎゅうとなった。
おれはおれを、あんたが好きになってくれたおれのままにしておきたいんだ。



雨は一向に降り止みそうにない。トタンの上を水滴が跳ねる音が頭の上で響く。
続く長い静寂の間、おれはただ呼吸を整えることだけに腐心していた。このひとの傍が息苦しいだなんて今に始まった事じゃない。でもおれはどうやったってここを、このひとの傍を動けないってことを知ってる。

「手、繋ぐか」
「よせよ。ガキじゃあるまいし」
責めるようでも呆れるようでもない、落ち着いた声が、意地っ張り、と言った。

肩が触れ合うぎりぎりの距離で、水滴と隊服の厚い生地ごしに伝わるほんのわずかな体温に、ありったけの意識を持っていく。
おれは現状で満足しないとならない。これ以上を望むなんざ、身にそぐわない贅沢なんだ。
それなのにあんたは優しい。優しくて、おれになんでも呉れるという。
なんて残酷なんだろうと思う。


あんたはおれに、きらいになることすら赦してくれない。