薄い砂壁の向こうからくぐもって、 「親の死に目に会えませんよ」 笑ったような山崎の声が聞こえた。 もう済んじまったから構わねえ、と近藤さんが笑って応える。 山崎の足音がおれの部屋の前を通り過ぎるのを待って、おれはそっと廊下に面した襖を開けた。一歩一歩、冷たい床に足を滑らせて近づけば近藤さんの部屋から、ぱちんぱちんと、爪切りの音が小さく聞こえる。 「トシか」 襖越しに声をかけられ、ああ、と頷いて戸に手をかける。 半分ばかり開けば室内は行灯の橙じみた光に照らされていて、 近藤さんは敷きっぱなしの布団の上で胡坐をかき、器用に上体を曲げて足の爪を切っていた。 「なんだ」 「別に、」 ほんとに用事があるわけじゃない。いい加減に返事をしたけれど近藤さんもそれ以上追及するつもりは無いらしく、爪を切る手を止めもしない。 布団の逆の端に腰を下ろし、一連の動作をなんとはなしに見守る。 ひととおりやすりをかけ終って、ふっと息を吹きかける。ちらとこちらへ遣られた視線が絡んだ。身体一つの距離がもどかしくなって、 「切れ」 無遠慮に伸ばした腕はひょいと取られた。 「いいよ」 おれの爪をまじまじと眺める近藤さんを見ながら、ずっと昔、このひとと出会う前、爪を噛む癖があった事を思い出す。不ぞろいでぎざぎざの爪に驚かれ、それ以来ずっと、こうしてかれに切りそろえてもらうのが習いになった。 思い返せば体の関係をもったのもその頃だ。 爪切りの刃を添えながら近藤さんが呟く。 「いつ見ても、お前の指は形がいい」 誰と比べてやがるんだ、と思うけれど云わない。 白粉や香水の臭いをさせて帰ってきて、紅をつけた着物でおれを抱きたがっても、どういうつもりかとも聞かない。それはおれの意地でもある。 口にはしなくたって、態度や雰囲気でいくらでも不快を表しているのに、むしろおれが不機嫌になるのを楽しんでいる節すらある。どうしたってこのひとは女のところに通うのをやめたりしない。 確かに、おれが女の声を装ってあげても無理がある。筋肉ののった硬い体躯や、疵だらけの肌は興をそそるものではないだろう。それでも、おれ以外の人間を近藤さんが欲することが、どれだけ悔しいか判らない。このひとに抱かれる女どもを、片端から斬り捨ててやりたい。頭ではわかっていても感情がてんでついていかない。 睨むようなおれの視線に構う様子もなく、丁寧にやすりをかけていく。 「なあ、お前の爪さ、いつもちょっと深爪にしてるの。わかる」 おれは小さく首を振る。 「なんでだ」 「爪が伸びると、背中がいてえんだよ」 お前は遠慮もなく思い切り立てるんだから、とからかわれ、ああ、と遅れて理解して頷く。 「いいじゃねえか、爪のあとぐらい、」 それぐらいつけさせてくれたって、ばちはあたらねえ。唇を尖らせれば近藤さんはにっと、とびきり悪い顔で笑った。襟を引き寄せられたと思ったら、すぐに組み敷かれてしまった。背中で薄い布団がたわむ。 下りてくるあごの髭を愛おしく撫でる。雄雄しく張り出すおとがい。互いから呼気を奪うような深い口付け。蜜のように甘い、唾液を一心にすする。 襟元を無遠慮に割ってきた掌が、肌を直接撫でればむずがゆいようなじれったいような疼きが瞬く間に全身を支配して、自分の身体の現金さを嗤う。 酸欠になりそうだと、真っ白になった頭で考える頃、腹の下まで這って来た手が下帯を捕らえて潜る。 「は、うゥ、」 思わず唇を離して喘いだ。 亀頭をぐずぐずとからかうように撫でられ、先端から先走りが面白いように漏れるので、近藤さんの口角が目交いで持ち上がる。玩具でも弄っているようにらんらんと輝く目が、無邪気で同じだけ怖い。怖くて興奮する。 一方的に攻められているばかりも癪で、近藤さんの前を探ろうとするのだけれど裾さえうまくつまめない。そうこうするうちきつく握られて背筋がしなる。 「ひ」 後腔をなぞっていた中指がぎちりと進入を始めて、上の方へずり上がる腰をもう片方の手が力強く留める。好き勝手に中を拓かれる感触。びくともしない掌。怯えた動物のように引き攣る呼吸に、自分がこれから引き裂かれるような気分になって、背筋を甘い戦慄が走る。みっともなければないほど快楽が増す。 中で開いたり閉じたり、かと思えば指が増えたり、おれの息が絶え絶えになるまで攻め立てた挙句、痺れきったそこから指が抜かれた。できた空洞がひくつくのが自分でもわかっていたたまれない。脱力しきって空ろな視線を天井の木目に逃せば、すぐに膝裏を手が掴み、膝頭がぐいと胸元に押し付けられた。そうして拓いた粘膜に、火傷しそうに熱いあれが押し当てられる。 行為を何度重ねても、この瞬間は息を呑んでしまう。緊張とおののきと、そしてそれらを大きく飲み込む期待で鼓動が病気みたいに跳ねる。 「う、ぐゥ、」 おれの中に文字通り押し入ってくる、かれの剛直。幹が髄道をこじあけていく感触が、じきに凶暴な悦楽となって、そこから火がついたみたいに身体中に回って爆ぜる。 幹が力を失った内壁をすりあげ、勢いをつけて腹の奥を叩く。びちゃびちゃとあられもない音におれは狂乱の声を上げる。獣じみたそれに煽られたように近藤さんの律動も激しくなる。 一度出して以来精管は麻痺して、ずっと射精しているような錯覚がする。もう自分では自分がどうなっているのかもわからず、ただ近藤さんの汗ばんだ腕に、立たない爪を立てようともがく。 布団の外で冷えて冷たくなったおれの手を、近藤さんがそっと取った。一段落とした灯りの下、検分でもするみたいに顔の近くへ持っていく。 全身がだるくてされるままでいたら、近藤さんは耳慣れない言葉を口にした。 「纏足って、知っているか」 てんそく、口の中で繰り返して思い至る。走れないようにするために足を縛って奇形にさせる、支那の風習。声を出すのも億劫で小さく頷けば、近藤さんはおかしくてたまらない、という体で云った。 「なあトシ、俺には、あの気持ちがちょっと分かるよ」 まどろみながら声を聞いて、それならおれにもしてくれればいいのに、と覚束ない頭で思った。爪だって足だって同じだ。 おのれの肉体がこのひとの手ずから、この人に合わせて歪められていくのを想像して、おれは恍惚となる。 100118 +++++++++++ (企画お題・『深爪』『嫉妬』) ご協力ありがとうございました!!^^ |