はあ、とひとつため息を吐いて、ちょっと大きな声で名前を呼んだ。 「近藤くん」 うとうとしていた彼は、はっと顔を上げ、 「ふえ、あ、はいっ」 間が抜けた返事を寄越す。僕は眼鏡のポジションを直しながら、少々厭味に云ってやった。 「君が僕の話を聴きたいと云うので僕は時間を割いているのだがね」 ごめんごめん、とあまり懲りていない照れ笑いに肩を小さく竦める。学習意欲はあるようだがどうにもオツムがついてこれないようで、まだ始めて三十分も経っていないというのに居眠りは二回目だ。 もとよりヘタに知恵をつけさせる気もない。名の知れた兵法書やら四書やらの、当たり障りの無さそうなさわりだけを簡単に紹介してやるだけのつもりだったのだが、それですら難航している。 まず漢字が読めていないのに加え、返り点の振っていない漢文がちんぷんかんぷんらしく、ちょっと込み入った話になるとすぐにうつらうつらとしてしまう。 こんなのが曲がりなりにも組織の長に納まっているのだから世も末だ。まあゆくゆくは乗っ取らせてもらうつもりなので、僕にとっては好都合だけれども。 こんな莫迦でも人徳だけは下手にあるようで、何度か腹心の隊士をつかって情報操作をしたけれどどれも失敗に終わっている。軽口を叩いてはいても、どの隊士も近藤への不信を匂わせただけで拒否反応を示すらしい。阿呆どもの感性はよくわからない。 夜半、自室に引き上げようと執務室を出る。 廊下の突き当たり、角の向こうから言い争うような声が聞こえた。 「……からいっただろ、」 誰だかぴんと来たので歩みを止め、壁に身を寄せた。壁伝いに耳をそばだてる。 「ほんとにトシは焼餅妬きだな。女の子のみならず仕出屋のおばあちゃん、新米隊士、この間は野良猫だったか」 「違えよ、今回はそんなんじゃなくて」 「考えすぎだ、トシは」 はは、と笑う、近藤の声は能天気なもので、それに苛立ったらしい土方が噛み付くように云った。 「アホかアンタは、小馬鹿にされてんのがわかんねえのか」 低く、獣が威嚇するような唸り。 「おれたちのこと纏めてアホだと思ってやがる。あいつも、あいつの連れてきた隊士も、おれは仲間だなんて思っちゃいねえ」 「トシ」 嗜めるように呼ばれて土方は口を噤んだ。 「お前にまで先生を敬えとは云わない。確かに彼が俺に忠義を感じているかはわからない。けれど今、組のためによく働いてくれている彼を、悪し様に云うのは感心せんぞ」 忌々しそうに舌をひとつ打つ音が聞こえた。間もなくどすどすと、乱暴な足音がこちらへ向かう。ぎくりとして身を竦めた。僕の張り付いている角を、ずいと行き過ぎた背中を見送る。気づかれなくて済んだようだ。 ほ、と息を吐けば、続いてみしりと床が鳴り、近藤が顔を覗かせた。 「お恥ずかしい、聞かれてましたか」 あいつが失礼して、すみませんね、と頭を下げる。保護者でもないのになんでこの男が謝るのだ。 第一土方の言っていることは尤もなのだから、僕に弁明があるはずもない。 ばつが悪そうに笑う、その人の良さが結果的に仲間を破滅へと導くことになるというのに。愚かな男だ。 そう思うけれど、こうして笑いかけられると何故か、腹の奥まで見透かされたような落ち着かない気分になる。 近藤は僕の肩をぽんと叩くと、先生、おやすみなさい、と手を振った。促されて歩み出し、会釈だけ小さく返した。 土方と僕は本質のところでよく似ていると思う。誰も恃まず、馴れ合わず、ただ自分の爪を研ぎ澄ます荒野のけもの。 ただ一つ決定的に違うことがあるとすれば、主がいるかいないか、それだけだ。あんな阿呆のような男を主と選んで、信じきって無様に嫉妬して、見苦しいったらない。傍目で見ていれば胸がむかむかする。 孤独と盲信と、どちらがより幸せなのか。愚かに生きることが出来ない自分は果たして賢いといえるのか。 頭を掠める感傷を振り切るように、僕は首を振った。 091021 |