虚心


時計の盤面を眺めていたら知らず知らずのうちに舌打ちがもれていた。
遅い。何してんだ。またあのスナックか。ほんとに近藤さんの給料のうちどれだけの額面が夜の街に消えているのかを思えば気が遠くなりそうになる。
まだ風俗だのなんだの行ったほうが実用には供するのに、近藤さんはああ見えてロマンチストだからあの類の店は好きじゃないらしい。なんやかやで恋愛の真似事がしたくてキャバやスナックに通い詰めているみたいだ。どの女にも体よくカモられているだけで、そうそう深い仲になんざなれないくせに。
お妙は長く続いているほうだけれど、普通は近藤さんの粘着に負けて店や町を変えちまうからであって、決してアイツに特別惚れてるってわけじゃない、はずだ。近藤さんの年間医療費の実に九割方の元凶だっていうのに、ウラオモテのないところがいいとか抜かしやがって、思い出しても腹の立つ。

キリキリ機械音がして柱時計がボーンと鳴り出した。とうとう午前様だ。二回目の舌打ちに被せて、こたつに入り込んでいた総悟があくびをひとつした。
「カリカリすると小皺が増えますぜ」
うるせえ、黙れ。一瞥くれてやると総悟は背中を丸めてこたつと同化する。

玄関のほうがやたら騒がしくなった。壁に張り付いて耳を澄ませば聞き間違えるはずもない近藤さんの声。
真選組局長、ただいま帰りましたァ、などと張り上げているのが聞こえる。またしこたま飲んできやがってるな。


どすどすとスキップでもしそうな陽気な足音がだんだん近づいて、ここ休憩室の襖がガラリと開いた。
「たっだいまァァ」
赤ら顔、上機嫌で怪我もないところを見ると、きょうはすまいるじゃなかったようだ。
おかえンなさい、とゲーム画面に見入っている原田と永倉がぞんざいな挨拶を返す。続いて総悟が子供っぽい声を出した。
「おかえりなせぇやし」
「総悟ォまだ起きてたの」
「近藤さんを待ってたんでさァ」
「ええっ」
近藤さんは大げさに感嘆の声を上げると、
「総悟けなげ!いいこだな総悟はァ」
総悟に抱きつきほっぺたやら額やらにキスを浴びせ始めた。総悟は無表情ながらまんざらそうでもない。ふざけてるだけとわかってはいても頭に血が上る。襟首をむんずと掴んで力ずくでひっぺがした。
「明日も朝から登城だろ、もう寝やがれ」
追い立てるように部屋から連れ出せば、みんなおやすみィ、と部屋中に愛想を振りまいた。バッカじゃねぇの。


局長室まで先導して歩く。近藤さんはおれの袖のあたりをひっぱって懲りずにキャバ嬢の話をする。
「トシきーてきーて。今、まのんちゃんといいとこまで行ってるの!」
「また何かねだられたのか」
吐き捨てるように言ったのに、声はちっとも怯まずはしゃぐ。
「すごーいトシなんでわかるの!そうなの、プらダのカバンが欲しいんだって!かわいくおねだりされちゃったらさぁ、ここが見せ所!ってなるじゃん。ふたりの距離もグンと縮まるじゃん」
いい加減にしろ。歯を食いしばったら、額の辺りでぶつんと何かが切れたのがわかった。

どん、と近藤さんの胸板を押した。おぼつかない足元がよろけて、近藤さんの背中が壁につく。襟を軽く掴んで、至近距離で低く訴えた。

「おれもねだれば、聞いてくれるのかよ」
なんでおれじゃいけないんだ。もう何度めかも忘れた懇願。
おれならあんたのことだけ見るし、よそ見なんか絶対しないし、片時も傍を離れない。
造作だってそこらのアホ女よりよっぽど整ってる。もう十年もあんたの右腕で、蔭に日向にこうして尽くしてるだろう。おれにできないことなんかせいぜいガキを産むことぐらいじゃねえか。それだってがんばればどうにかなるだろ。

近藤さんは口の形を奇妙に歪ませ、髪をぼりぼり掻いた。
あー、と長く唸って、酒臭い息は言った。
「あのさ、トシなんか誤解してるみたいだけど」
俺、お前が嫌いで拒むんじゃないよ、と。
「俺とトシでなんか始めてごちゃごちゃして、挙句今まで俺たちが築いたものまで失くしちまうのが厭なだけ」
何を言わんとしているのか真意が判らず瞬く。怪訝そうな顔をしたおれに、近藤さんはへらっと微笑んで、おれの頬を両手で挟んだ。鼻先がひっつくぐらいの近さで呟く。
「お前に嫌われるのやなの」
バカじゃないのか、おれは近藤さんの手を振り払った。頬に血が集まって熱い。
「嫌いになんかなるわけない、おれがあんたを嫌いになるだなんて、そんなこと金輪際あるわけねえだろ」
早口で言い募れば近藤さんは少し目を眇めた。それが諦めたときの表情だと遅れて気づく。髪をそっと撫でる、大きい掌が温かい。
「うん」
正面に捕らえた瞳はおれをまっすぐ写している。信じてない。なんで。そう思ったら泣きたくなってきた。あんた今まで、おれの何を見てたんだ。おれがこんなに全身全霊であんたのこと、惚れた腫れたなんて生易しいものじゃなく好きだって、どれだけ言葉で行動で表してきたか、知らないだなんて言わせない。

胸が詰まってあふれそうで、言葉をこぼそうと開いた口が、そっと食指で塞がれた。
「よく考えろ」

目交いで瞬いた、近藤さんの虹彩が鈍く光る。

後頭部にあった近藤さんの左手に抱き寄せられ、額が鎖骨の辺りについた。近藤さんの手の力は強く、痛みを覚えるほどに強くおれのうなじを押さえる。もう顔は見えない。身体ごと声が震えて届く。

できないことをできないというのと、できもしないことをできるというのと、
どちらが誠なのかをよく考えろ。


近藤さんのくぐもった声は酔ってかすれて、どこか力弱く聞こえて、それでおれは訳もわからず不安になった。いつも安心するはずの近藤さんの体温に、こんなに心臓がじくじくするのは初めてだった。




091019